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忌部神社
いむべじんじゃ
徳島県吉野川市山川町忌部山14  Zenrin Data Com Maps display !!


丸に真向き麻の葉

式内社 阿波國麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗
旧村社
(旧國幣中社)

御祭神
天日鷲翔矢尊(天日鷲命) 后神言筥女命 天太玉尊 后神比理能賣命
津咋見命 長白羽命 由布洲主命 衣織比女命

徳島県吉野川市山川町にある。
JR山瀬駅の東南約1Km、忌部山の麓に鎮座。

山瀬駅から東へ700mほど進み、岩戸で南下。
狭い道をウネウネと登ると、道がカーブしているあたりにある。

境内には、鳥居が見当たらなかった。
ひょっとすると、ここに至る道のどこかにあったのかも知れないが、
気づかなかった。

道から少し低い境内の奥に、
拝殿と本殿があるのみの、簡素な神社だ。

当社の創建は不詳だが、
神社明細帳によれば、皇紀2年2月25日の創建。

阿波祖神・天日鷲命を祭神とし、忌部氏の奉祭する神社で、
古代においては、国中第二位の神階であったが、
中世には八幡社となり、神主の早雲氏が徳島城下に移り、
兵乱が続く中で、式内・忌部神社は、長く不明となった。

調査の結果、吉野川市山川町山崎にある当社が比定され、
明治5年5月10日、国幣中社に指定された。
その後、美馬郡貞光説もあり、調査の結果、正式に当社に確定。
明治7年12月22日、太政官布告。
明治8年1月10日、祭文奏上。
明治14年11月まで、官祭が執行された。

だが、その後も論争が絶えず、
明治14年1月7日、突如、美馬郡貞光の社を忌部旧社地とされた。
これに対し、当地の住民が猛反発し、
太政官は、妥協策として、
徳島市内に社地を定める通達を出し、
明治25年、社殿の竣工とともに徳島市二軒屋町へ遷座された。

元は、現地から200mの黒岩にあったといい、
地震のため、現在地に遷座したという。

当社の南に、忌部山古墳群がある。
6世紀後半の五基の古墳があり、
直径10m前後の墳丘。
この古墳群の調査により、忌部神社山崎説の正当性が
考古学的に実証されたと考えられている。

当社の神紋は、麻の葉紋。
徳島の忌部神社が、梶(穀)紋であるのに対し、
祭神・天日鷲命が植えた、もう一つの植物である麻。
なにやら主張しているようで面白い。


社殿

拝殿

境内

本殿

神紋の麻

本殿

忌部神社
当社の祭神は天日鷲命 神言筥女命  天太玉命 神比理能賣命 津作見命  長白羽命 由布洲主命 衣織比女命 である。往時は黒岩と呼ばれる處にあったが 應永二年(一三九六年)秋の地震で社地が 崩れ現地に祭られる様になったと云われる。
忌部神社に就ては延喜式神名帳にも記載され て居り明治四年(一八七一年)には国幣中社として 列せられてゐるが其の正蹟に就ては神社間に種々 争ひもあるが忌部神社正蹟考の研究資料に 基く各方面からの考察に依って見ても忌部 神社の正蹟は山崎の地であることは先づ正しい と考へられる。大正、昭和の大嘗祭には之の境 内に識殿を建て荒妙を織りて貢進した事績や裏 山一帯の忌部山には古墳を初め数多くの歴史 的事蹟を蔵している。以上。

−境内案内板−

* 一部誤字が見られるが、そのまま記載。


【 忌部神社 (忌部山) 】

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