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斐太神社
ひだじんじゃ
新潟県妙高市宮内241  Zenrin Data Com Maps display !!


中輪に
五三根笹

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式内社 越後國頸城郡 斐太神社
旧郷社

御祭神
大國主命八千矛神) 矢代大神(積羽八重事代主神) 諏訪大神(建御名方神

八千矛神 『特撰神名牒』
八千矛神 天照皇大神 建御名方神 積羽八重言代主神 『神社明細帳』
巨勢雄柄宿禰命 『神名帳考證』『越後野志』
荒人命(巨勢斐太臣の後裔) 『日本神祇志料』など

新潟県妙高市にある。
北新井駅の西2Kmほど、18号線乙吉交差点を西へ。
周囲には古墳郡がある。

奥行きのある境内は、木々が茂って、良い雰囲気だった。
拝殿左手には、境内社雁田神社がある。
この辺りに多い神社で、男根を祭っている。

参拝当日は春の例大祭ということで、
正装の神職が近隣の神社から集まってきていた。

「斐太」と書いて「ひだ」と読むが、
相殿に矢代大神を祀っているので、地元では矢代さんと呼ばれるらしい。

「斐太」の語の由来は、祭神が当地に来られ、
住民に田産の業を教え、国中の日高見の国と称したことから。
宮内・雪森・飛田・稲荷の村々を総称して「斐太」と云ったようだ。

一説には巨勢斐太臣の後裔・荒人命を祀るために「斐太」という。

式内社・斐太神社に比定されている古社で、
もとは神社背後の山中にあったと伝えられている。

相殿の矢代大神は、矢代川上流の岡沢山に鎮座していたが
上杉謙信によって天正二年(1574)に遷座、合祀され、
鮫ケ尾城の鬼門鎮護としたもの。
相殿の諏訪大神は、南葉山山頂に鎮座していたといい、
矢代大神、諏訪大神ともに古社地に古跡が残っているという。


鳥居

社号標

参道

参道

参道鳥居

稲荷社

境内

拝殿

雁田神社と八幡宮

拝殿

本殿

『神社明細帳』には、次のやうに記載されてゐ る。大國主命が国土経営のため御子言代主命建御名方命 を従へて当国に行幸し、国中の日高見国として当地に滞在 した。大國主命・建御名方命は山野・田畑・道路を、言代 主命は沼地・河川を治め水路を開いた。積羽八重言代主神 は矢代大明神と称し、矢代川の名の由来となつたといふ。 河源鎮護として往古より岡澤山の奥に鎮座してゐたが、天 正二年(一五七四)四月三日、上杉謙信は現在地に合祀し、 鮫ヶ尾城の鬼門鎮護とした。この神のお祭は矢代祭と称 し、毎年四月三日には近郷の村落はもとより、遠く米山邊 の人達迄も祝祭したといふ盛大な祭であつた。諏訪大明神 も南葉山絶頂に鎮座してゐたのを、何れの時代にか現在地 に遷座したと口碑に伝へる。今日もその跡があるといふ。
 上杉氏が鮫ヶ尾築城の際、百二十八ヶ村の総社と定め、 宮内・神宮寺・乙吉・籠町・雪森・青田・稲荷・十日市・ 飛田の各村を社領として寄進し、幣帛を献じ、崇敬厚かつ たといふ。天正七年(一五七九)、鮫ヶ尾落城の際、兵火に かかり、又、明暦二年(一六五六)の火災で社殿・宝物・古 文書等、悉く焼失してしまひ、その歴史はわからない。

−『式内社調査報告』−



【 斐太神社(印刷用ページ) 】

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