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熊野神社
くまのじんじゃ
山梨県甲府市国母4−2−13  Zenrin Data Com Maps display !!


武田菱


梅鉢

式内社 甲斐國巨麻郡 笠屋神社
旧村社

御祭神
伊弉册尊 配祀 速玉男神 事解男神

山梨県甲府市にある。
身延線国母駅の北東1Kmほどの国母に鎮座。
20号線の国母立体から国母通りを東へ300mほど進み、
少し南へ入った場所。社前に上小河原公民館がある。

境内入口は南東向き。
綺麗に刈り込まれた植栽の参道の奥に鳥居が立ち
鳥居の前に「熊野神社」と刻まれた社号標。

鳥居をくぐると、それほど広くない境内だが
清廉に保たれた、町中の鎮守の趣がある。

社殿は、瓦葺の拝殿と後方の垣の中に亜鉛板葺本殿。
ともに入母屋造りだ。

拝殿の右手前に、横向きに境内社の祠があり
中に3つの石祠が並んでいる。
その手前には、旧御神木だった樅の根。

拝殿の左手に、拝殿よりやや小ぶりな社殿があり
何かが祀られているようだ。
参拝している時は、神庫だと思い込んで、ちゃんと撮影していなかったが
鳥居を撮影した写真の一部に、かろうじて写っていたので
トリミングして掲載しておく。

境内で撮影できるものは、とりあえず撮影しておくようにしているのだが
たまに、ボーっと参拝して、撮り逃すことも多くて、
後から悔むことも多い。

社伝によると、
大同年間(806〜810)、紀伊からの勧請と伝えられ、
国の母の神と称されたらしく、本宮・新宮・那智の神を祀る古社。
鎮座地・国母の地名の起源なのだろうか。

『山梨県神社誌』によると、
中世以来、度々の大洪水によって社地拝殿は損失し
現存の社殿は、延宝四年(1676)再建のものとか。

『式内社調査報告』によると、
当社付近は、式内社・笠屋神社の旧跡と伝えられ
当社には、正応四年の笠屋神社の棟札が残されているとある。

笠屋神社そのものは既に廃絶しているらしいが、
『平成祭データ』には、摂末社として
笠屋天神社(菅原道真)と神明社(天照皇大神)の名前が載っている。
(ただし残念ながら、境内のどの社か、あるいは境外にあるのか未確認)

『甲斐国社記・寺記』には、
笠屋天神は大己貴命事代主命少彦名命を祀るとあり、
式内社・笠屋神社であるとし、元和の大水によって社殿が傾廃したので、
御神体を熊野神社に安置したとある。

社頭由緒書きによると、
甲斐国四所の霊場(巨摩郡小河原の熊野、八代郡八代の熊野、
山梨横井の熊野、都留郡岩殿の熊野)の最初の鎮座の一社であるという。

ここで、巨摩郡小河原の熊野は当社。
八代郡八代の熊野は、山梨県笛吹市北1615の熊野神社。
山梨横井の熊野は、たぶん、山梨県甲州市塩山熊野174の熊野神社。
で、都留郡岩殿の熊野はどこだろう。

本殿の屋根に、神紋らしき紋が三つあり
中央に梅紋、左右に割菱紋。
割菱紋は、甲斐の武田の武田菱だと思うが、
中央の梅紋は、笠屋天神(菅原道真)の神紋だろうか。


社頭

鳥居

境内

境内社頭

社殿左の境内社か

本殿

社殿右の境内社(石祠3つ)

御神木樅の根

熊野神社(旧村社)
鎮座地甲府市国母四丁目二−十三
祭神伊弉册命 速玉男命 事解男命
例祭日十月十七日
境内地一六九二坪
由緒沿革
当社は大同八〇六年より八一〇年中の勧請で 国の母の神と称す 甲斐国四所の霊場 巨摩 郡小河原の熊野 八代郡八代の熊野 山梨横 井の熊野 都留郡岩殿の熊野といわれた中郡 最初の鎮座の一社である
本宮 新宮 那智の神を祀る 後 武田太郎 信義造替 正慶年間一三三〇年高畑太郎次郎 時盛修造 明応一四九三年の頃再建奉行は地 頭武田八郎信恵とのこと 慶長八年黒印神領 弐石三斗八升を寄進された 中世以来大洪水 度々にて社地拝殿を損失延宝四年丙辰一六六 七年造替とあるがやはり相当の古社であった
水害は往古は荒川の流れ小河原三村上村の北 を経て増坪村境を東へ突流すと云う 太永二 壬午年大雨の時武川筋蘆倉村大草履の狹戸山 崩れて御勅使川上流の湖水一時に落ちて釜無 川を働突し中郡へ押出し激水東方笛吹川に合 し中郡の間渺々として大湖の如くなりし由  其節神田荒亡し神人等皆離散せし由其後天正  慶長 元和の間も数度の大水にて社頭漸々衰 微すと云う 現在はこの本殿と拝段二棟が残 る 当本殿は三間社入母屋造り向拝一間屋根 亜鉛板葺という建物で身舎柱は円柱 向拝社 は几帳面つきの角柱である 身舎は内陣と外 陣に分れる 後白河院奉納の幣串 武田家奉 納の金幣 秋山越前守虎康奉納の武具馬具  下山の方奉納の円鏡等あった

−社頭由緒石碑より−



【 熊野神社 (甲府市国母)(印刷用ページ) 】

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