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諏訪神社
すわじんじゃ
山梨県北杜市長坂町大井ヶ森1208
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式内社 甲斐國山梨郡 大井俣神社 (参考) |
山梨県北杜市にある。
中央本線小淵沢駅の東4Kmほどの長坂町大井ヶ森に鎮座。
608号線を東に進み、中央道を越えて1Kmほどの地点から北上して600m付近、
道路の右手に南向きに参道入口がある。
参道を進むと石鳥居。扁額には「諏訪神社」と刻まれている。
鳥居から参道を50mほど進むと社殿のある杜。
参拝は4月の後半で、桜の花が少し残った状態。
満開の風の強い日なら、桜吹雪の中の参拝だったのに惜しい事をした、
などと考えながら参道を歩く。
参道入口付近の左手に、岩の上に石祠が祀られており、
参道の中ほどに、もう一つの岩が祀られていた。
『山梨県神社誌』に「社前に大石ありて御座石又は腰掛石と云う」とあるが、
この二つの岩のどちらかだろうか。
社殿のある杜の入口には赤い両部鳥居。
鳥居の奥は開けた境内で、境内の奥、北側に南向きの社殿があり、
社殿前の左右に境内社の石祠が並んでいる。
拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿は覆屋の中で確認していない。
拝殿の扁額には「諏訪大明神」と書かれている。
創祀年代は不詳。
慶長八年(1603)幕府黒印状にて神領寄付とあり天正以前の創祀であることは明白。
『甲斐国志』に当社は大井俣神社と明記されているらしく、
式内社・大井俣神社の参考として参拝してみた。
ただし、大井俣神社は甲斐国山梨郡の式内社であり、
当社は巨麻郡に属しているので、式内社を主張しているわけではないのだろう。
『式内社調査報告』にも当社に関する記述はない。
天文九年(1540)武田信玄公村上合戦のおり、
信濃進攻甲州拠点の一つである大井ヶ森の当社に戦勝を祈願。
戦に勝ち帰国の途次奉斎し、社名を諏訪神社と改め、
雁又の矢に田二反歩と社掌板山与左衛門に諏訪大社五祝の一家を持ち来り
「祝」の姓を与えて諏訪大社の神紋梶の葉を用いることを許可したという。
当社の神紋については未確認だが、
上記のように諏訪大社の神紋「梶の葉」の使用を許可されており、
諏訪大社上社と同じ神紋を載せておく。
参道入口 | 鳥居 |
参道脇の岩に祠 | もう一つの岩 |
桜咲く参道 |
境内入口 | 鳥居 |
境内 |
境内社の石祠 | 石祠 |
境内社殿 |
社殿 | 扁額「諏訪大明神」 |
諏訪神社 御祭神 建御名方命 鎮座地 山梨県北巨摩郡長坂町大井ケ森字森山1208 例祭日 10月2日 由 緒 甲斐国志に、古昔大井俣神社と称すと明記されており、創立年月は不詳であるが、慶長8年黒印状を以て神領寄附されていることなどから、天正以前の創建であると推定されている。天文9年武田信玄公村上合戦の折信濃進攻甲州拠点の一つである大井ヶ森の当社に戦勝を祈願し、戦に勝ち帰国の折奉斎し、社名を諏訪神社と改め、雁又の矢に田2反歩と、社掌板山与左衛門に諏訪大社五祝の一家を持ち来り「祝」の姓を与え、諏訪大社の神紋梶の葉を用いることを認許の御墨付きを相添え奉納せられた。武田滅亡後後難を避け明治に至り再び「祝」姓に改めている。御墨付き古文書類は清水彦左衛門祖先名主役勤務の故を以て預かり置いたが、元禄年間火災に遭遇し、他の書類等と共に焼失したと云う。 慶長8年黒印状「合高1石5斗1升2合大井ヶ森村の内右御寄進侯国家御祈念、社中御造営干要侯重而御朱印申調可進侯 桜井安芸守信忠外3名連署慶長8年卯3月朔日」 宝 物 幣帛 力石 雁股の根(武田家寄進) 額面 西洞院左兵衛督信堅郷染筆 −『平成祭データ』− |