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山口神社
やまぐちじんじゃ
和歌山県和歌山市谷377  Zenrin Data Com Maps display !!


五三の桐

式内社 紀伊國名草郡 伊久比賣神社

御祭神
伊久津比売命

阪和自動車道の側、谷にある。
山口地区、7号線から北へ1Kmほど狭い道を進む。

入口の鳥居・廳殿から、長い参道をさらに進むと境内がある。
垣内に二つの社殿が並び、右が日吉社、左が春日社とある。

明治までは、日吉春日社と呼ばれていた神社だが、
明治42年、近隣の山口地区の神社を合祀し、
山口神社と改称した。

創祀年代は不詳。

平安朝初期には存在していたと考えられている古社。
坂上田村麻呂の墓と言われる将軍塚や
田村麻呂五世孫坂上五郎の居城跡にも近く、
田村麻呂が当社に戦勝祈願をしたとも伝えられている。

熊野街道沿いにあるため
熊野参詣の上皇や女院などもしばしば当社に参詣したとも。

秀吉の紀州遠征の際に兵火にかかり焼失したが
慶長四年頃から再建され、
和歌山城の鬼門守護として崇敬されたらしい。

「紀伊続風土記」では、「当社山王社相殿に伊久津姫命を祀ると
云伝るときは、恐くはこれ古の影の僅に遺れる所にして、
延喜式並に本国神名帳に載する所の伊久比売神ならんか」
と記されている。つまり、式内社・伊久比賣神社の論社。
また、境内の春日社は『紀伊国神名帳』の「正一位 春日大神」とする説もある。

山王社とは、日吉社のことだから、
日吉社がの相殿に祀られていた、伊久津比売命が、
現在の主祭神となり、日吉社が本殿となっているようだ。

古くは日吉春日神社といわれたが、
明治四十二年、山口王子社・白鳥神社をはじめ
山口村各地の神社を合祀したのを機に山口神社と改称した。

多分、明治までの祭神は、日吉社=大山祇命
春日社=春日四神だったのではないだろうか。

参拝時には、近所の方が、お孫さんを連れて、
参道脇の林の中で、木の実拾いをして遊んでいた。

長い参道を進むと、森に囲まれた境内が開け、
垣内に2社殿が鎮座。垣の外にも数社の境内社がある。
個々のつくりや佇まいは、違うのだが、
滝原宮のような印象を受けた。
ただ、手持ちの資料では由緒などの詳細がわからず、
神奈備サイトに資料を提供していただいた。


7号線そばの鳥居

社前の鳥居

2社殿が並んで鎮座

境内

本殿

右 日吉社(当社本殿)

左 春日社



参道

境内社

境内社

 古くは日吉春日神社といわれたが、明治四十二年、山口王子社、白鳥神社をはじめ、 山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称した。
 昔から当神社の祭神と伝えられている伊久津比売命は、いかなる女神か、また、ど の神の配偶神か明らかでないが、古くから安産の神として信仰されていたという。
 当社の創建は詳らかではないが、「紀伊続風土記」によると、「延喜式神名帳名草 郡に伊久比売神社あり又本国神名帳従四位上伊久比売神あり」とし、この「伊久比売 神」は当神社の伊久津比売命ではなかろうかと記している。当社は平安初期には創建 されていたようで、平城天皇が熊野行幸の時、勅使を立てて神殿を拡大したとの伝承 もある。また、当社には平安朝初期の武将坂上田村麻呂にまつわる伝承も多く、田村 麻呂の墓という将軍塚や、田村麻呂の五世坂上五郎の居住跡といわれているところも すぐ近くにあり、坂上一族が戦勝を祈願して当神社の祭礼を行ったともいわれてい る。また、伝承によれば、延歴年中に田村麻呂が凶賊退治に来たとき、その送迎にあ たった者が、十番頭人として神社の祭礼に重要な地位を占めて、代々引き継がれ、江 戸時代まで続いたという。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、上皇や女院の熊野参 詣が盛んとなり、その街道にはいわゆる九十九王子社が各地に建設された。当社は王 子社ではないが、熊野街道沿いにあり、上皇や女院もしばしば立寄ったと伝えられて いる。

−『和歌山県神社誌』 神奈備提供



【 山口神社 (和歌山市)(印刷用ページ) 】

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