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大森神社
おおもりじんじゃ
群馬県高崎市下室田町919
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旧郷社 |
群馬県高崎市にある。
高崎駅の北西15Kmほどの下室田町に鎮座。
旧榛名町にあり、高崎市役所榛名支所の前。
鳥川の支流・滑川のほとりに境内がある。
29号線のそばに境内があり、境内入口は南向き。
朱の両部鳥居があり、鳥居の脇に「大森神社」と刻まれた社号標。
鳥居の扁額には「正一位大森大明神」と書かれていると思うが、
「森」が、木の下に×のような文字になっている。
鳥居をくぐると正面に美しい社殿。
入母屋造の拝殿の後方に、流造の本殿。
社殿の色は赤だが、屋根は黒っぽい色で、コントラストが美しい。
そういえば鳥居も上部は黒だった。
社殿の前に陶器の狛犬が置かれている。
社殿後方の摂社・金鑽神社にも同様の狛犬が置かれているのだが、
当地と陶器は関係あるのだろうか。
ネットで調べたら、「果売箱」っていうのはゴミ箱のことらしい。
中国の街角に沢山あるそうで、そう思ってみるとゴミを入れやすそうな口してる。
広い境内だが地面はアスファルトで覆われており、
木々も少ないので、非常に開放的な境内。
境内後方には川が流れ、吹き抜ける風も心地よい。
そんな雰囲気の境内。
『全国神社名鑑』によると、寛永十八年(1641)、
第二代上野安中藩主・井伊直好生誕の産土神として建立され、
社領として石高八石一斗六升が寄進された神社。
井伊直好が生まれたのは1618年だから、
20年以上の工期ということだろうか。
のち、宝暦九年(1759)、拝殿を造営。
寛政五年(1793)、本殿を改築。
明治三十五年(1902)、拝殿を再建。
昭和七年(1932)、本殿・拝殿・末社・鳥居などを改築し、
昭和十八年(1943)、郷社に列した。
『平成祭データ』によると、
大森渓の日影の社と呼ばれていた古社が当社の前身らしく、
弘仁六年(815)にはすでに祀られていたという。
この「日影」は日蔭のことではなく、日光(ひかげ)のこと。
開放的で明るい現在の境内に相応しい。
『国内神名帳の研究』の上野国神名帳の項では、
「従五位上 大木明神」の所在地が(行方村か、下室田村)と記され、
下室田の当社・大森神社が大木明神である可能性を示唆している。
ということで、鳥居や社殿の扁額に「木の下に×」と書かれて、
「大木×大明神」とも読めるのが面白い。
本殿の後方に、摂社の金鑽神社(素盞嗚命)。
その右手に石祠がいくつか祀られ、
道祖神、御嶽大神、大山祇太神、庚申塔などの石碑がある。
社殿には三つ巴紋があちこちに付けられており当社の神紋だと思ったが、
手水鉢には笹の紋が刻まれていた。
どちらが当社の神紋かわからなかったので両方載せておく。
社頭 |
鳥居と社号標 | 社殿 |
境内社殿 |
拝殿扁額 | 本殿 |
境内社殿。背後に金鑽神社 |
神楽殿 | 金鑽神社 |
金鑽神社の陶器の狛犬 | 金鑽神社の陶器の狛犬 |
本殿 |
−境内由緒− 大森神社 由緒 弘仁六年(八一五)、従四位上検非違使源満季の三男で上野国西七郡を領していた群馬太夫満行は伝教大師の請によって、寺院建立の地を見て廻った時に、夕暮れ大森の火影を頼って行ったところ、祠があり、社名祭典などたずねたところ、神主、神宮直経が大森渓であると答え夜闇になったので青木の庄まで案内したと伝えています。 建久六年(一一九五)二月、上野国内社寺を管掌していた奉行藤九郎盛長と言う人に、日影社の由来を上申、盛長が調査にきているとも言い伝えられます。下室田大日蔭の地は日蔭ではなく日光(ひかげ)の大日向、大日影ですが「ひかげ」の地名が残っているのはここだけです。したがって大日陰の谷津を大森渓と言ったのかもしれません。また大森渓は下室田から中室田へつながる滑川流域の大渓谷か、下室田谷津の渓かわかりませんが、大森渓の日影の社が大森神社の前身のようです。 建武元年(一三三四)、里見伊賀守時成が浄財を寄進社殿を再建したと伝えられいます。 −『平成祭データ』− |