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遠野郷八幡宮
とおのごうはちまんぐう
岩手県遠野市松崎町白岩23−19

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岩手県遠野市にある。
遠野駅の北東、約2Kmの松崎白岩に鎮座。
境内入口に駐車スペースがあり、
境内の森の入口に、赤い鳥居。
木々の参道を歩くと、正面に赤い社殿が見えてくる。
社殿左手には旧拝殿。境内に右手には、幾つかの境内社が並ぶ。
不動神社、鍛冶神社(御神刀鍛錬殿)、
甲子神社、天満宮、山神社、稲荷神社。
その他 十二支社が並び、それぞれに子丑寅卯・・・と名前。
酉は不動神社で、戌亥は、八幡宮本社となっているようだ。
創建は文治5年(1189)。
平泉の藤原氏を追討した源頼朝から、遠野郷を賜った
阿曾沼広綱が、宇夫方広房を代官として送り、
松崎村駒木に堀合館を築き、氏神である八幡を祀ったという。
その後、建保年中、阿曾沼親綱が、横田城を築くと、
城の北東(鬼門)である松崎村光興寺宮代に八幡宮を勧請。
寛文元年(1661)、南部直栄が、現在地に遷座させた。
昭和25年、八幡神社から、現社名へ改称した。
遠野を含めた南部領では、
神意を獅子頭に移したものを権現様(ゴンゲサマ)と呼ぶ。
『遠野物語』に、当社のゴンゲサマに関する記述がある。
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ゴンゲサマといふは、 神楽舞の組ごとに一つづつ備はれる木彫の像にして、 獅子頭とよく似て少しく異なれり。 はなはだ御利生のあるものなり。 新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、 土淵村字五日市の神楽組ゴンゲサマと、 かつて途中にて争ひをなせしことあり。 新張のゴンゲサマ負けて片耳を失ひたりとて今もなし。 毎年村々を舞ひてあるくゆゑ、これを見知らぬ者なし。 ゴンゲサマの霊験はことに火伏せにあり。 右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮れ宿を取りかねしに、 ある貧しき者の家にて快くこれを泊めて、 五升桝を伏せてその上にゴンゲサマを据ゑ置き、人々は臥したりしに、 夜中にがつがつと物を噛む音のするに驚きて起きて見れば、 軒端に火の燃え付きてありしを、 桝の上なるゴンゲサマ飛び上がり飛び上がりして火を喰ひ消してありしなりと。 子供の頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらふことあり。 −『遠野物語 第110話』より− |
ここにある、新張の八幡社が、当社のこと。
五日市の神楽組は、当社の東北にある倭文神社の神楽組。
当社のゴンゲサマは、火伏せの神であり、
その片耳が欠けているらしい。
『遠野物語拾遺』にも、この片耳の話があり、
そこでは、違うゴンゲサマと争って負けたとある。
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附馬牛の宿の新山神社の祭礼の日、 遠野の八幡様の神楽を奉納したことがあった。 その夜八幡の権現様は土地の山本某という家に一宿したが、 その家も村の神楽舞いの家であったので、 奥の床の問に家つきの権現様が安置してあって、 八幡の権現をばその脇に並べて休ませた。 ところが夜更けになって何かはなはだ烈しく闘うような物音が 奥座敷の方に聞こえるので、あかりをつけて起きて行って見ると、 家の権現とその八幡とが、上になり下になって咬み合っておられる。 そうしてとうとう八幡の権現の方が片耳を喰い切られて敗北したということで、 今にこの獅子頭には片耳がないという話。 維新前後の出来事であったように語り伝えている。 −『遠野物語拾遺 第58話』より− |
当社のゴンゲサマは、喧嘩早いが、強くはなかったようだ。
ただし、当時の片耳のゴンゲサマは、ご利益があるために盗難にあい、
現在のゴンゲサマには両耳があるらしい。
社殿の屋根には対いの鳩の紋。
鳩は、八幡神の神使なので、それを象徴しているのだろう。
だが。当社の鳩の足元には菱の紋が付いていた。
南部氏の家紋・割菱を追加しているのだろうか。
境内入口と二之鳥居 ![]() | 参道と三之鳥居 ![]() |
参道階段 ![]() | 社殿 ![]() |
境内社殿 |
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拝殿、戌と亥 ![]() | 本殿 ![]() |
旧拝殿 ![]() | 酉 不動神社 ![]() |
御神刀鍛錬殿 ![]() | 神輿殿 ![]() |
子、牛、寅、卯、辰、巳、午、未、申と並んでる |
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稲荷社、山神社、天満宮、甲子神社 |
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当神社のご祭神は誉田別尊・大国主神・事代主神・少彦名神・御年神の5柱の神様をお祀りし、遠野郷八幡宮と申しております。 八幡宮の由緒は詳らかではないが、文治5年(1189)奥州平泉藤原氏を追討した源頼朝から遠野十二郷を賜った阿曽沼広綱が一族の重臣宇夫方広房を代官として送り松崎村駒木の堀合に「舘」を築き、源氏の氏神である八幡神をまつり、遠野郷を統治したのに始まる。 建保2年広綱の次子親綱に引き継がれ、堀合の舘に居住して横田城を築き、城の東北(鬼門)に当たる宮代に城の鎮守として八幡宮を勧清し崇敬した。 慶長5年(1600)阿曽沼氏衰退後南部利直の所領に属す。寛永4年南部直栄が八戸から転封し、領内巡検の際に社領10石を賜った。八幡宮は古来から源氏の氏神であったので南部家の厚く崇敬するところとなり、直栄は更に社地を踊鹿山(現八幡山)の現在地に求め、寛文元年遷宮した。以来祭事を盛大にし、武士は遠祖源頼義が鶴ケ岡八幡宮で行った祭式にならい流鏑馬を、町方には南部ばやしを、在方にはしし踊り外の芸能を奉納させた。現在も欠く事なく毎年9月15日に行われる「流鏑馬神事」郷土芸能総参加の「馬場めぐり神事」がそれである。特に馬場めぐり神事は、祭り本来の形を現在に遺す行事と言われ、民俗学的にも興味深い祭りであると言われている。 明治維新後社格が決められた際当神社は郷社に列し、遠野郷(旧上閉伊郡の西半分)の住民を氏子とした。昭和25年八幡神社を「遠野郷八幡宮」と改称し、翌26年には、出雲大社のご分霊外3柱の神を合祀する。昭和42年には創建780年・現地遷宮300年を記念して幣殿・拝殿を新築し境内を整備した。昭和62年「遠野郷八幡宮創建八百年誌」を刊行し、創建八百年大祭を盛大に執行して現在に至る。 −『平成祭データ』− |
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