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神田神社
かんだじんじゃ
滋賀県大津市真野4−7−2  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 近江國滋賀郡 神田神社
旧県社

御祭神
彦國葺命 天足彦國押人命

大津市真野にある。
琵琶湖大橋からまっすぐ西へ進み、JR湖西線を越えて1Kmで北上。
入口は東側、道路に沿って境内がある。

創祀年代は不詳。
社伝によると、持統天皇四年、彦國葺命十二世裔孫
和邇部臣島務大肆忍勝等に真野臣の姓を授けられた。
同年九月、居館の傍らにある浄地普門山を宮居と定め、
素盞嗚尊を鎮祭して、間野大明神と奉斎せられたという。

祭神は、天足彦国押人命とその3世孫の彦国葺命。
天足彦国押人命は、琵琶湖西岸の古代氏族、小野氏・和珥氏の祖。
彦国葺命は、真野氏の祖にあたる。

当地は真野氏の根拠地であり、
周囲には曼荼羅山古墳、春日山古墳などが点在する。

当社は、式内・神田神社の論社で、
当社から西へ1Kmほどの場所にも神田神社が存在する。
『近江輿地志畧』によると、その神田神社は、当社から勧請されたとある。
『滋賀県神社誌』によると、普門山の神田神社は、
当社から分離独立したものとある。

『近江式社考證』によると、
三代実録の貞観四年(862)の条に、
真野神田今雄に姓を賜り大神田朝臣と称した。
よって大和大三輪氏と同族となし、
大田々根子命の後孫、と記されているらしい。

当社の特殊神事、正月十七日の「幸在(さんやれ)祭」は、
「十七夜」とも呼ばれ、小字下河原から、当社を現在地へ
遷した模様を再現したもの。
かっては、浜の方にあったが、水害のため、遷したという。

参道の奥に拝殿があり、その後方に本殿。
本殿の右隣には、二の宮(棋神社ともいう)が祀られている。
二の宮の祭神・孝昭天皇は、天足彦国押人命の父。

道路沿いにあり、灯篭の並んだ参道の左側には駐車場。

琵琶湖の東岸のホテルに泊まっていたので、
早朝に琵琶湖大橋を渡って到着したが、
曇天のため、まだ、真っ暗だった。
仕方なく、先に小野神社方面を回り、その後戻って来た。


境内入口の鳥居

参道

境内の木

園・西浦・客人などの境内社

神宮寺

拝殿の後ろには立派な社殿が2つ。
拝殿の後方が本殿で、右が二の宮。棋(このもと)神社ともいう。


境内社殿

拝殿

社殿が2つ。本殿と二宮(棋神社)

一、御社名神田神社(みとしろのかみのやしろとも云う)
一、御社格延喜式内社(旧滋賀群八座の一)・旧県社
一、御祭神
 主神彦国葺命
 相殿天足彦国押人命
 二宮(社名は別に棋神社とも称する)
孝昭天皇(第五代)
須佐之男命
一、御創建嵯峨天皇・弘仁二年四月(八一一年)
一、御例祭春の大祭(古式祭)
秋の大祭
五月五日
十月五日
一、御由来 当神社は延喜式神明帳という書物に載せられている旧滋 賀郡にあった八社の中の一社で、第五代孝昭天皇をはじ めその皇子、天足彦国押人命とその三世の孫、彦国葺命 あわせて須佐之男命をお祀りするお社です。
彦国葺命は真野の遠祖で、その子孫が真野の入江の汀、 神田(みとしろ)の地に神殿を建ててお祀りしたのが始ま りで地名により神田神社と申し上げます。 彦国葺命は 崇神天皇の十年(西暦紀元前八七年)命により武埴安彦が率 いる賊軍を討ち鎮められた知勇・学才誠に優れたお方で あり今日 厄除・災除・勝運の神と仰がれております。
二の宮(八坂神社、天王社とも称されていた)にお祀り された須佐之男命は天照大神の弟神であり病除けの神と して古くから信仰されています。
一、真野 「まの」と訓み、大変古くから開けた神気ただよう素晴 らしい土地の意であります。万葉集をはじめ種々の和歌 集に真野を詠んだ歌が数多く見られるのも歴史上大事な ところ由緒のある土地柄であることがうかがえます。

近江路や 真野の浜辺に 駒とめて 比良の 高嶺の 花を見るかな
源頼政

−境内案内より−



【 神田神社 (真野町)(印刷用ページ) 】

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