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己爾乃神社
こじのじんじゃ
滋賀県守山市洲本町2322  Zenrin Data Com Maps display !!


五瓜に唐花

式内社 近江國野洲郡 己尓乃神社二座
旧村社

御祭神
大己貴命 天津彦根命 素盞嗚命

滋賀県守山市にある。
守山駅の北西5Kmほどの洲本町に鎮座。
477号線の列系図橋から西へ入って1Kmほどの場所にあり、
北側には「びわこ地球市民の森」がある場所。

境内入口は南西向きで、
右側に「式内己爾神社」と刻まれた社号標と由緒石碑が建っている。

鳥居をくぐり参道を進むと、正面に瓦葺入母屋造の拝殿があり、
拝殿の右手前に手水舎。 拝殿の後方、石組の上、垣に囲まれた流造の本殿がある。

本殿の垣の左右には境内社。
左手には、通常の神社では本殿クラスの立派な境内社。
右手には稲荷社と、その横に小振りな境内社の二祠がある。

『式内社調査報告』によると、
境内社は、稲荷社・大城神社、天満宮とあり、
旧本殿に神宮を祀っていると記されているので、
たぶん、左の境内社が神宮。
右手の稲荷社の隣にあるのが大城神社と天満宮だろう。

社伝によると、文武天皇の大宝三年(703)
中臣為恵によって創祀されたという古社。

当地は古来より曲峡の里と呼ばれ、
己爾野荘大曲里、中世には大満加里とも言われていた。

社伝によると、
度重なる洪水の時、御前大明神が現われ
「この地は霊地なり。我を祭らば五穀豊饒にして国民安穏なるべし」
との託宣により創祀されたという。

式内社・己尓乃神社二座に比定されている神社だが、
当社の東500mほどの場所に同名社があり、
当社と合わせた両社を、式内社・己尓乃神社二座とする説もある。

東にある同名社と区別するため、
当社を中の前の己爾乃神社、大曲の己爾乃神社、御前社といい、
東の社を列系図己爾乃神社、開発己爾乃神社という。

創祀当時は、現在地の南西に位置しており
本宮は柱から柱まで二丈六尺、
上壇奥行柱から柱まで一丈三尺、下壇奥行六尺五寸と
荘厳華美で栄えていたが、永禄年間の兵乱のために破壊され、
寛政三年に再建された。

往時の隆盛時には、近郷の木浜宮、幸津川宮、戸田宮、水保宮、
中野宮、矢島社、新開社と七郷の総社であったという。

賽銭箱や境内の燈籠に、木瓜紋が付けられていた。
素盞嗚尊を祀る神社であり、祇園社との関連があるのだろうか。


社頭

鳥居

境内

拝殿

本殿

本殿

本殿

境内左手、旧本殿の神宮だと思う

神武天皇遥拝所

境内左手稲荷社

天満宮・大城神社と稲荷社

式内 己爾神社
御祭神(正一位御前社)
大己貴命
天津彦根命
素盞嗚命
神宮寺保流山玉林寺
 ”己爾御前社”とか”己爾
前大明神”とか称され、文武天
皇の大宝三年(七〇三)に中臣
為恵が創建した延喜式内社
である。この地は古来より曲
峡の里。己爾野荘大曲里と
呼ばれ中世には大満加里と
も言われた。度重なる洪水の
時、御前大明神が現われ「この
地は霊地なり。我を祭らば五
穀豊饒にして国民安穏なる
べし」との託宣により御奉斎
された。往古は現在地より南
西に位置し荘厳華美な神社
として栄えたが、元亀二年の
兵乱で破壊され、現境内は寛
政三年から文久三年にかけ
七十年余を費やして再建さ
れたものである。

−社頭石碑−



【 己爾乃神社 己尓乃神社 (洲本町御前社)(印刷用ページ) 】

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