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三大神社
さんだいじんじゃ
滋賀県草津市志那中町309
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滋賀県草津市にある。
草津駅の北西5Kmほどの志那中町に鎮座。
26号線と葉山川が交差する場所から400mほど北へ行くと
道路が少し広くなっている場所に、北東向きに鳥居が立っている。
鳥居の左脇には「三大神社」と刻まれた社号標。
参拝は年末、曇天の早朝で写真を撮るには不向きな時刻。
空は白んで明るいのだが、地上はまだまだ暗い時刻。
鳥居をくぐり境内に入ると、右手に大きな藤棚がある。
天武天皇の勅により、藤原鎌足の葬られた談峯の藤花に因んで、
藤原氏の隆盛を祈念して、倉橋山の藤を移植した藤らしい。
織田信長の兵火にかかって焼失したが、
株元から芽生えて現在の藤棚になったという。
当社の前に参拝した惣社神社では「惣社大藤の縁起」として
天武帝の除病延命仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まるとある。
参道を進むと、砂利の境内。
綺麗というより清浄な雰囲気だ。
境内中央に拝殿があり、
境内の奥、垣に囲まれて社殿が並んでいる。
一番左手には流造の本殿。
本殿の斜め前には、鎌倉時代の石灯籠。
本殿の右手に宝塔があって、その右手に境内社が二つ。
社伝によると、天智天皇の勅により
大中臣金連が天智四年、風神の二柱を祀ったのが起源。
当社が式内社・意布伎神社であるという。
後、応徳年間に穴太包光が、大宅主命を合祀し
祭神三柱となったため、三体神権現と称するようになり
その後、三大大権現と称して、
支那三郷の総祭が当社で行われるようになった。
社殿は中世に破損したため、吉田大欲助穴太包元等が修繕。
さらに、江戸初期承応年間、芦浦観音寺舜貞法人によって再建。
そして、現在の社殿は明治九年に再建されたものらしい。
社殿や幕に「雀と竹」の神紋が付けられていた。
調べたところ、宇和島笹という紋のようだが、
愛媛宇和島藩主伊達氏の家紋が、なぜ当社の神紋になっているのだろう。
当社の前に参拝した志那神社の神紋は「篠笹に雀」で、
惣社神社は「五枚笹」だった。
笹や雀が重要で、形状には特に意味は無いのかもしれない。
『滋賀県神社誌』には「竹の二羽の雀」と記されている。
社殿のある垣の外、左側にある神庫には「大宮」と書かれている。
右側には境内社の稲荷があり、藤棚のそばの石を白髭宮。
垣内の2つの境内社は、社名を確認していないが
若宮社と蛭子社らしい。
社頭 |
鳥居 | 境内の藤棚 |
境内と拝殿 |
白髭宮 | 稲荷社 |
垣と社殿 |
本殿 | 鎌倉時代の石灯籠 |
本殿と境内社 |
−境内石碑− 老藤由来記
古老ノ伝説ニ曰ク、聖徳太子十七条憲法ヲ
御創立シ給ヘリ、是ヨリ後中大兄皇子(天智
天皇)ト和州中臣鎌足等ト蘇我入鹿ヲ誅スル
事ヲ謀リ給ヒ、蘇我氏滅亡セル後内大臣藤原
鎌足公薨去セラレ飛鳥ニ葬リタリシカ其長子
定恵墓トシテ大和ノ談峯ニ改メ葬リタリ、然
シテ後天武天皇ノ勅ヲ拝シテ談峯ノ藤花ニ因
ミ藤原ノ隆盛ヲ祈念トシテ彼ノ倉橋山ノ藤ノ
苗ヲ移植セルカ年ヲ追テ成木シ巨大ノ藤樹ト
ナリシヲ織田信長ノ兵火ニ罹リ巨藤亦焼失。
後株元カラ芽生エ次第ニ繁茂セリ今ノ藤樹ハ
即チ是ナリ−境内石碑− |