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雲氣神社
くもげじんじゃ
香川県善通寺市弘田町字鬼塚1105  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 讃岐國多度郡 雲氣神社
旧郷社

御祭神
豊受大神 大龍神 大雷神

香川県善通寺市にある。
金蔵寺駅の南西3Km。高松自動車道の南側にあり、
脇の道を走っていると、田の中にポツンと鎮座している。

天霧山(360m)の東麓2Kmの位置し、
社殿は南東向き、正面には、筆ノ山(296m)が聳えている。

天霧山の霧によって、雲がわき、雨が降るということから、
雲気神社となったという。
讃岐地方にとって、雨の神は重要な神なのだ。

創祀年代は不詳。

祭神は、豊受大神・大龍神・大雷神の三柱だが、諸説あり、
他には、闇靇高靇という雨神。
天御中主神水波女神大己貴命などがある。

豊受大神となった理由は不明だが、
雲気を「うんけ=うけ」と読めば、なんとなくわかる。
雲の字に拘れば、雨神や水神を連想する。

当初、天霧山を意識しながら、参拝していたが、
参拝を終え、境内から出る時に、ふと見ると、真正面に筆ノ山。
こっちの方が、印象的な風景だった。

神紋は、まったく確認できなかったが、
『式内社調査報告』には、四つ目とあった。


天霧山の東麓の境内

社域

鳥居

社号標

境内から鳥居と筆ノ山

社殿

本殿

鳥居正面の筆ノ山

式内郷社 雲気神社 縁起
 当社は 弘田郷の産土神社であり その社格は郷社である また  延喜式神名帳によれば 讃岐国官社二十四社の一とされている
 当社の祭神は 香川県神社誌によれば 豊宇気大神 大龍神 大雷神 の三座とされており また延喜式神名帳の式社考には 天御中主尊とある  なお いずれの祭神におかれましても その鎮座の年月は不詳である
 当社の神位は 三代実録によれば 貞観元年(八五九年)正月七日に 清和天皇より讃岐国従五位下を賜り 翌年五月二十日には讃岐国従五位 上に昇階を賜ったと記されている このことから当社は小社ではあるが 古代においては朝廷の崇敬厚い有力な神社であったことが伺える
 社号の由来は 天霧山よりい出し雲により良く雨が降るとのことから 雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されているが 真偽の程は定かではない
 当社の所在については 総本山善通寺伽藍に雲気明神を含む五社明神が 祀られており 東寺の文書抄にもこれに係る天喜四年(一〇五六年)の 記録がある また生駒記讃陽綱目の金刀比羅宮の條には 金刀比羅宮が 即ち雲気神社であると記されてている このように当社の所在は諸説あるが 天正六年(一五七八年)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり 兵火にかかり 社殿が消失したと伝えられており そのため定かではなく 宝暦四年 (一七五四年)に丸亀藩主京極高矩公により雲気神の所在について調査が 行われ 当地に社殿が再興されたものである まお 先公の造営された 社殿は 本殿(五尺一寸 一間二尺) 流れ造檜皮葺 幣殿(一間四方) 一方切妻造瓦葺 拝殿(一間半 三間)入母屋造瓦葺の三殿であり 神門を備えていたとの記録がある
 祭祀については 京極家において春秋二回執り行われ 藩主自らが 公式参拝をされていたと伝えられているが 明治維新後は神社制度も 改革され 廃藩の際に弘田村に委ねられ 以来冨頭部落において祭祀を 行っている次第である
 なお 当社は 往年崇敬者は多く 武運の長久 産業の達成祈願のため 遠近の参拝者が後を絶えなかったと伝えられている

−参道の『神殿新築工事竣工記念碑』より−



【 雲気神社 雲氣神社 (善通寺市) 】

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