[HOME]  >  [神社記憶]  >  [関東地方]  >
メニューを表示する 表示用ページ


日光東照宮
にっこうとうしょうぐう
栃木県日光市山内  Zenrin Data Com Maps display !!



朱印のページへ!!

旧別格官幣社

日光東照宮公式サイトを開く

御祭神
徳川家康公
相殿 豊臣秀吉公 源頼朝公

栃木県日光市にある。午前8時の開門。大人一人1300円。
表門前で、開門待ちをしたので、当日一人目の参拝客となった。
むちゃくちゃ寒かったが、雪のためか、境内が青い光に包まれていた。
僕にとって、日光は青い、そう印象づけられた。

徳川家康公を祀る。
徳川家康公は、元和2年(1616)久能山に神葬され、
翌年、遺言により此処へ移された。

本殿・拝殿・唐門・陽明門など八棟が国宝に指定され、
四七棟が国の重要文化財。
じっくり見ると、一日では終わらないかもしれない。

参拝順路は、表参道から鳥居をとおり、
表門前にある料金所で、参拝料を支払い、階段を上る。

表門をくぐり、左折して神厩(三猿がある)を過ぎると、
右手に陽明門が見えてくる。


表参道と社号標

鳥居

表門、8時に開門

神厩にある三猿

鳥居と陽明門

日光東照宮といえば、この陽明門。
多くの彫刻が用いられており、見ていて飽きる事がないため、
日暮し門とも呼ばれている。
参道から見て、ほぼ真北に位置しており、
鳥居から見ると、陽明門の真上に北極星がみえるらしい。
こういうところにも、天海(山王一実神道)の意図が見える。


陽明門

陽明門

陽明門をくぐると正面に社殿がある。
社殿前には唐門。こちらも多くの彫刻がある。
一般客は、社殿右手の昇口から拝殿内にあがる。
拝殿内も、かなり綺麗なのだが、撮影禁止だった。
拝殿と本殿は、石の間で繋がっている。


社殿

社殿

社殿前の唐門

 栃木県日光市山 内。旧別格官幣社(現、別表神社)。祭神は 徳川家康で、豊臣秀吉と源頼朝を配祀す る。日光国立公園の自然美のうちに展開す る東照宮の人工美は結構の極致であり、世 に「日光を見ない者は結構といえない」と もてはやされる。日光は古くから男体山を 対象とする山岳信仰の霊場として栄えて来 た。二荒山神社や輪王寺の起こりもそこに 求められるが、東照宮の鎮座によって更に 信仰的な脚光をあびることになる。徳川家 康は元和二年(一六一六)四月一七日駿府城に 薨ずるや、遺命により一旦駿河の久能山に 埋葬(久能山東照宮の創立)、一周忌を期して 日光に改葬することになる。二代将軍秀忠 は同年一一月社地を選定、本多正純・藤堂 高虎を奉行として翌三年四月社殿を完成し た。朝廷より既に東照大権現の神号、正一 位の追贈宣下があったが、家康の霊枢は久 能山を進発して四月四日日光到着、八日奥 院廟塔に改葬、一七日遷座祭が執行された。 現在の秀麗な社殿は三代将軍家光によって 造り替えられたもので、寛永二年(一六 三三)一一月着工、同一三年四月に竣工した。 幕府は巨額の造営費を拠出したといわれる。 その後はたびたびの修繕を経て、その美観 を今日に伝える。当初は東照社と呼んだが、 正保二年(一六四五)一一月宮号の宣下があり、 東照宮と改称した。また翌三年四月の例祭 からは、朝廷よりの奉幣が恒例となり、日 光例幣使と呼ばれて幕府終焉まで続いた。 例幣便は中山道を経て日光に至ったが、こ の道は特に例幣使街道と称された。東照宮 への参道である全長三七キロの沿道の杉 は(松乎正綱が杉苗二○万余本を二○数年かけて 植樹)今も約一万五千本を残して特別史跡 ・特別天然記念物に指定されている。歴代 将軍及びその名代の参詣もしばしばあり、 幕府は日光山内を直轄の特別区域として、 殊に鄭重な取り扱いをし、広大な神領を寄 進した。東照宮は海抜六四○メートル、一 九万一四○○平方メートル余の境内に精巧 華麗な多くの建造物を配置する。権現造と いわれる本殿・石の間・拝殿、正面及び背 面唐門、東西透塀、陽明門、東西回廊など 八棟は国宝建造物に指定される。陽明門は 終日眺めていても見あかぬところから「日 暮御門」とも呼ばれ、奥社参道の潜門長押 上の彫刻「眠り猫」は名工左甚五郎作とし て有名。本殿の背後に位置する奥宮(唐銅 製の廟塔)とその参道にある坂下門、また 本殿前方に展開する神輿舎、本地、輪蔵 (経蔵)、御水舎、神厩舎、神庫、表門、五 重塔など三四棟は重要文化財である。本 地堂天井の鳴龍、神厩長押上の三猿(見ざ る・言わざる・聞かざる)はまた有名。宝物 館に保存・展示する宝物のうち銘助真・国 宗の二太万は国宝、東照宮縁起絵巻、家康 の具足・刀剣などは重文の指定。例大祭は 春季五月一七、一八日、秋季一○月一七日 (もとは四、九月の両度)で、神輿渡御・百 物揃千入行列・東遊舞などが行われる。百 物揃千人行列とは、極めて多い種類と人数 とが奉仕するところから出た名称で、創建 時に秀忠将軍社参のもとで奉仕された様式 を今日に伝えるという。

−『神社辞典』より−


もっと詳しい内容へ

【 日光東照宮(印刷用ページ) 】

ボーダー




no index