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英多神社
えたじんじゃ
長野県佐久市安原字英多沢1669  Zenrin Data Com Maps display !!


立梶の葉

式内社 信濃國佐久郡 英多神社
旧村社

御祭神
建御名方命

長野県佐久市にある。佐久平駅から東へ5Kmほど。
佐久I.C.からなら9号線を南下し、
相生町で左折(東)、44号線へ、
鼻顔橋を越え、伊勢林神社あたりで香坂方面へ。

当地の東には、山々が連なり、佐久高原を越えて、
軽井沢へと通じる峠になっている。
当社の後方2Kmには閼伽流山(1028m)がある。

当社の社号「英多」は「エタ」と読むが、
本来は「アガタ」であったと考えられている。

創祀年代は不詳。
式内社・英多神社に比定されている古社。

建武年間(1334〜)、文明年間(1469〜)に兵火にかかり、
しばらく、神宮司の安養寺にて守護されていた。
また、永禄年間(1558〜)兵火により社殿、古記録等を焼失した。

明治六年四月村社に列格した。

祭神は、現在建御名方命一柱。
往古は、三輪の大物主命を合祀していたが天文年間に一柱とした。

当社の特殊神事に、お舟祭というのがある。
若衆が舟形の神輿をかついで町内を練り歩き、
最後の里宮に奉遷するが、舟がメチャメチャに壊れる。
多く壊れた方が豊作となるという。

寛政の時代、佐久市にある新海神社は、佐久郡内一の大社であり、
佐久郡内の各神社の神官は、新海神社の神事へ奉仕することになっていたが、
当社英多神社長倉神社大伴神社の三社は式内社であることを理由に、拒否。
それに対し、新海神社は寺社奉行へ訴訟を起こすという事件があった。

式内社としての誇りがあるのだ。

鳥居からなだらかに登る参道で、雰囲気がある。

以前、晩秋に参拝した時は、枯葉の境内に薄靄が漂っていたが、
今回、初夏の新緑の頃に再度訪れ、写真を撮り直して来た。
やっぱり、参拝は早朝が良い。

参道の脇や社殿の周囲には、小祠が幾つもあり、
多くの境内社があるが、詳細は分からない。


社頭

参道脇に石祠

鳥居と社号標

参道と境内

参道階段

参道脇に神池

境内と社殿

拝殿

本殿覆屋

境内右手、青麻神社

境内右手の石祠

境内左手の境内社

石祠と東照宮

境内社と社殿

入口の鳥居から道路を挟んだ丘の上に燈籠と石祠がある。
枯葉の中に鎮座しており、なにか意味のあるものものかもしれないが、
こちらも詳細は不明。なんだろう。

以下の写真は晩秋(前回の参拝時)に撮影したもの。
初夏には雑草が繁茂していて、登る気にならなかった。


丘の上の燈籠と石祠

神社から300mの場所、川の近くに里宮がある。
鎮座当時の社家・白川氏の隣接地らしい。


集落から当社へ向かう道に里宮がある。右に見える山は閼伽流山か?

 本社は創立年月不詳なれども延喜式内社として 古くより地方の崇敬を集めてゐる。『大日本史』神祇志は 佐久郡三座英多神社今在安原郷英多澤とあり、又安養寺什 寶文安年間(一四四四−四九)の記録書に本社地籍字英多澤 との記截ある。建武年間(一三三四―三八)並に文明年間(一 四六九―八七)再度の兵火に羅り暫く本村の安養寺(臨済宗) の神宮寺において守護奉仕中(此の時大祝小祝等と稱する神官 奉仕の事同寺舊記にあり)、永禄年間(一五五八―七○)に至り 該寺も兵火のため烏有にきしこの時古書類共に焼失する。
 文明年間(一四六九―八七)に至り大井小太郎朝光大井庄 領主となるに及んで當社を崇敬し社殿を改興し神領を寄進 す。永禄六年(一五六三)武田晴信上州南牧城征服の皈途奉 賽のため太刀奉納。尚、源頼朝足利成氏武田勝頼等武将の 崇敬厚し。天正十一年(一五八三)依田平三昌秀より永五○ ○貫文の寄進あり、寛永七年(一六三○)徳川家より高五斗 を賜ふ。(神領下賜の印書復活せり)尚同家代々の信仰あり。 享保十四年(一七二九)正月二十七日附正一位の宗源宜旨を 受ける。
 本社は往古大和國三輪神社の大物主命を合祀せるにより 拝殿は今に三輪造なり。現在の本殿は文化三年(一八○六) 十一月の建替。槻を用材とし精巧なる彫刻を施してゐる。
 明治六年四月村社に列格。明治四年正月太政官布告によ り上地。昭和二十四年七月二十九日國有境内地の無償譲與 を受く。

−『式内社調査報告』−



【 英多神社(印刷用ページ) 】

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