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八幡神社
はちまんじんじゃ
長野県佐久市蓬田101  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ柏


十六菊


五七の桐

旧郷社

御祭神
誉田別命 息長帶比賣命 玉依比賣命
配祀 高良玉垂命

長野県佐久市にある。
佐久平駅の西6Kmほどの蓬田に鎮座。
中山道(44号線)を西へ進み、
佐久市役所浅科支所を通過して500mほどに場所。
かっては中山道六十九次の八幡宿があった場所。

道路に面して、南向きに鳥居が立っている。
鳥居の右脇に社号標が立ち、
鳥居をくぐると、巨木の聳える参道があり、
正面に天保年間造営の楼門。
参道の左手には、道祖神の石碑が並んでいる。

楼門をくぐると、右手に古い建物。昔の社務所だろうか。
参道を進むと神門があり、神門の奥が社殿のある境内。

参道の正面には、当社の旧本殿である高良社がある。
この社殿は、室町時代・延徳三年の造営で、
国の重要文化財に指定されている。

高良社の右手、東向きに当社の社殿。
入母屋造の拝殿の後方に、流造の本殿がある。

参拝は初夏の早朝。
拝殿の向拝の下には明かりが灯っていた。

本殿の後方には、多くの石祠や石碑が並んでいる。
御牧七郷の総社らしく、多くの神々が祀られているのだろう。

社殿の北側は緑の芝生。
東側は林になっており、清々しく広い境内。
早朝、心静かに参拝するには最適な環境だと思う。

社伝によると、
貞観元年、滋野貞秀公によって勧請された古社。
当地を支配した望月氏は、望月の鬼門除けとして崇敬したという。

『吾妻鏡』に「佐久八幡宮御前二十騎」と記されており
武神として、また、御牧七郷の総社として、
領民、領主、藩主から篤く崇敬され、
度々の寄進や修理営繕を受けた神社。

旧本殿を利用した高良社について。
武内宿禰(高良玉垂)を祀る社なので、八幡宮摂社に相応しい社なのだが、
あるいは高良(コウラ)は、高麗(コウライ)からの変化で
もとは高麗(コマ)、つまり駒(コマ)だったのかもしれない。
であれば、信濃御牧(貢馬のための牧場地)に祀られる社としても相応しい。

高良社には三扉あり、それぞれに金の紋が付けられていた。
当社は八幡宮なので、巴か鳩が神紋だとは思うのだが参拝時に確認できず。
旧本殿である高良社の扉にある3つの紋(柏、菊、桐)を掲載しておく。

高良社に向かって、参道の左手、拝殿の向かいに小池があり
池の中に厳島社が祀られている。

高良社の背後、境内の北側が芝生になっており、諏訪明神が祀られている。


境内入口の鳥居

参道と鳥居と楼門

天保十四年造営の楼門

境内と参道

参道右手に社務所?

高良社と拝殿

本殿

拝殿

重要文化財八幡神社旧御本殿の高良社

高良社

拝殿向かいの池に厳島社

社殿の左に諏訪明神と本殿

参道の道祖神石碑

本殿背後に多くの石祠や石碑

八幡社由緒
御祭神 應神天皇 神功皇后 玉依姫命
由緒 創建年月未祥なれど、伝承に貞観元年滋野貞秀公よる(ママ) といわれ望月三郎公は鬼門除の神として信仰されたという
「吾妻鏡」に「佐久八幡宮御前二十騎」とあるを見ても当時の武将の 崇敬の厚かった事が偲ばれます。
延徳三年滋野遠江守光重公建立の棟札に「仰彼八幡宮之其 始雖送数百歳更不知建立始爰」とあり、又「建立始望月 御牧中悉到本意云々」とあり当時御牧七郷の総社 として七郷住民総発起の形で建立された事が考えられる。 その後、天正五年竹田信玄の臣武田佐馬助豊公、滋野 印月公、馬場遠江守信重、息女弥保姫等によって修理、 寛文四年酒井日向守公葺替、元禄十一年石川美作守公 葺替、さらに牧野藩主となっても代々崇敬厚く、元禄十六年、 享保九年、寛保元年、天明三年には康満公によって寺尾山、 諏訪山の用材を頂き、両佐久、上小諏訪、上州方面から も寄進と相まって本殿の再建立が行われ、旧本殿は、 高良社として祀られ後文化十四年、天保十四年、嘉永 七年、明治三十一年、昭和九年と営繕が行われ今日に 至っています。御神徳は古くより地方の守護神として 殖産興業、武神縁結び、その他深く厚く各方面の 人々に重く崇敬されています
重要文化財八幡社旧本殿高良社
一、御祭神武内宿祢公(神名高良玉垂命)
一、建立年月日延徳三年九月三十日(西暦一四九一年
一、国宝指定昭和十七年十二月室町時代の遺構を良く示すものとして指定
一、重要文化財指定昭和二十五年八月(建第一〇三六号)
一、解体復元昭和四十年九月三十日(文化庁)
一、特徴三間社流造こけら葺、庇門、手狭、木鼻の絵模様、その他共にすぐれた室町時代の特徴が現れている。

−境内由緒書−



重要文化財八幡神社旧御本殿「高良社」について
創建年月不祥、伝承では貞観元年滋野貞秀公信濃の領所寺尾に八幡宮を城衆雄徳山より定須行者をもって勧請したと云われ、延徳三年(西暦一四九一年)(野遠江守光重公が中心)の棟札に、「抑彼八幡宮之御事其始雖送数百歳更不知建立始」とあり、数百歳前は、平安初期になるので、伝承の裏付けとなる。尚棟札に「建立始、望月、御牧中悉致本意云云」とあり、御牧七郷の綜社として勅旨牧周辺の住民によって建立されるまでに崇敬されていたことがうなずける。「吾妻鏡」には「佐久八幡宮御前二十騎」とあり、当時武将の尊崇を受けたこと。又、源頼朝に仕えた望月三郎公は、鬼門除けの神として、崇めたこと等が伝えられている。修理の面では、天正五年(一五七七年)武田信玄の家臣、武田左馬助信豊公、滋野、望月、印月斎公、甲州の住人馬場遠江守信重息女弥保姫等の協力で、葦替と、一部修理、寛文四年(一六六四年)酒井日向守公によって葦替、元禄十一年(一六九八年)に石川美作守公によって葦替、遷宮、元禄十六年四月、鳥居立替料として、材木二百本を寄進される。その後、宝永五年(一七0八年)牧野周防守公、水門増築、享保九年六月(一七二四年)牧野内繕正公によって葦替、寛保元年六月(一七四一年)、本殿、拝殿、水門、鳥居の修理葦替が、牧野内繕正源康周公によって行なわれ、安永十五年より、寺尾山、諏訪山の材木を、藩主よりいただき、天明二年、大工飯料として米七拾俵と、前の材木の売上金百両、他に諏訪上小両佐久にあって、浄財を集め、天明三年五月(一七八三年)に現在の本殿、拝殿、が造営された。高良社御祭神武内宿祢公、神名を高良玉垂命(牧野公の祖先と伝えられている)。八幡神社の御祭神応神天皇(誉田別命) 神功皇后(息長帯比売命)玉依比売命の臣である。昭和十七年十二月二十二日、文部省告示(第六百四十七号)を以て国宝指定、後法律改定昭和二十五年八月二十五日(建第一0三六号)を以て、重要文化財に指定。三間社流造、柿葺、庇門、特徴、手挟の絵模様、木鼻の絵模様、曲線のおおらかさ、斗木の線、たるき、虹梁、その他、室町時代の遺構がよく現われている。

−『平成祭データ』−



【 八幡神社 (佐久市蓬田)(印刷用ページ) 】

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