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祝神社
はふりじんじゃ
長野県長野市松代町松代566  Zenrin Data Com Maps display !!


六文銭

式内社 信濃國埴科郡 祝神社
旧郷社

御祭神
生魂命
配祀 健御名方富命 八坂斗賣命

長野県長野市にある。
上信越道・長野I.C.の南2Kmほどの松代に鎮座。
403号線から一本東へ入った道に面して西向きの境内。

住所は松代町松代なのだが、
社頭の案内板には「伊勢町」と書かれていた。
このあたりは伊勢町とも呼ばれているようで
近くに伊勢町公民館もある。

西向きの境内入口には大きな明神鳥居が立っているが、
『式内社調査報告』の写真には、
この鳥居が写っていないので、比較的新しいものだと思う。

鳥居の右手に「延喜式内社祝神社」と刻まれた社号標。

鳥居をくぐると正面に大きな入母屋造瓦葺の拝殿があり、
拝殿の後方、池の中の石垣の上に流造の本殿がある。

参拝は晴天の十月の午後。
池をボーっと眺めながらの参拝。
大きな池ではないけれど、なんとなく気持ちが良い。

境内の隅に稲荷社があるのだが、
名前を告げずに多額のお金を奉納する方が居られるようで
その方へのお礼状が書かれていた。
なんとなく気持ちが良いのは、それを読んだからかもしれない。

祝神社の読みに関して
『平成祭データ』には「ほおり」とあるが
『明治神社誌料』には「はふり」とあり、
『神社覈録』には「波布利と訓べし」とある。

創祀年代は不詳。
口碑に、上古英多真人の祖が、英多郷開拓の時に勧請したという。

往古は、本宮が東2Kmほどの東条山(奇妙山か?)山上にあり
当社は里宮であったが、後に合祀されたという。
山上の旧跡は「祝畑」といい、
天明八年には太刀や土器が出土したらしい。

配祀の諏訪二神は、海津城二の丸の付近にあったが
天文二十二年、武田氏が松代城を築造した時に
そのまま城内の鎮守として祀ったもの。
江戸時代になって、慶長十三年、当社に合祀された。

その後、諏訪大明神と称されていたが、
宝暦元年(1751)に祝神社と改称した。

式内社・祝神社に比定される古社だが、
『埴科郡志』によれば、屋代の須々岐水神社
本来の式内社・祝神社であったようだが、
中世には国照神社と称し、また、日吉神を合祀したため、
「山王さん」とも呼ばれるようになり、
祝神社の名を、松代の諏訪神社(当社)に許可したとある。

明治六年村社に列し、明治十五年郷社に昇格した。

拝殿や本殿の屋根に六文銭が付けられていた。
江戸時代の松代藩主・真田氏の家紋だが、
当社の神紋かどうかは確認していない。

境内の左手に大きな境内社が二つ。
八幡社・天神社と西宮神社(恵比須社)。
八幡社の脇に、上記の稲荷社がひっそりと立っている。

拝殿の右手には猿田彦社。
猿田彦社の右手に橋がかかり、池の中に宗方社。


社頭

稲荷社

境内

本殿

拝殿

池の中の本殿(斜め後方から)

八幡社・天神社

西宮神社(恵比須社)

猿田彦社

宗方社

祝神社 伊勢町
祭神生魂命いくたまのみこと
相殿健御名方冨命
八坂斗売命
たけみなかたとみのみこと
やさかとめのみこと
 延喜式内社埴科郡五社の一つで千年以上 の歴史を有す。松城城下時代は町方の産土 神、総鎮守社として祀られ、いまも親しみ を込めて「お諏訪さん」と呼ばれている。
 慶長三年(一五九八)に、生魂命は東条から、 健御名方冨命八坂斗売命の諏訪二神は海津城 二の丸から合祀された。 本殿は一間社入母屋 造り銅瓦葺き、拝殿は間口四間、奥行七間、 瓦葺き。見事な立川流の彫刻が刻まれる。
 境内には稲荷社、八幡社、天神社、西宮 神社(恵比須神社)、猿田彦社、宗像社な どがあり、学問、商業、家屋敷、食物、治水、 漁業、道案内他、八百万の神が祀られる。

−境内案内板[原文ママ]−



【 祝神社 (松代町)(印刷用ページ) 】

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