[HOME]  >  [神社記憶]  >  [甲信越地方]  >
メニューを表示する 表示用ページ


玉依比賣命神社
たまよりひめのみことじんじゃ
長野県長野市松代町東条字内田443  Zenrin Data Com Maps display !!


六文銭

式内社 信濃國埴科郡 玉依比賣命神社
旧県社

御祭神
玉依比賣命
配祀 天照皇大御神 建御名方命
相殿 素戔鳴命

長野県長野市にある。
上信越道・長野I.C.の南東3Kmほどの松代町東条に鎮座。
尼厳山(780.9m)の南西麓に境内がある。

蛭川を越え、小学校の前を通過して300mほどの位置に
参道入口の鳥居が立っており、鳥居脇に大きな木。
鳥居をくぐりケヤキの参道を進むと、山の斜面に当社境内。

木々に覆われた境内の中央部、石組の上に大きな社殿がある。
拝殿は、八棟造りの複雑な構造。後部の本殿は流造。

参拝は10月で、中途半端な季節。
初夏なら鬱蒼とした緑、11月なら紅葉が楽しめたかもしれない。
とにかく、気持ちの良い神社だった。

境内右手(東側)には、尼厳山・奇妙山トレッキングコースの
池田の宮登山口になっている。

社伝によると、
人皇八代孝元天皇十六年四月十六日、
斎川の地(現在の岩沢、東1Kmほど)に勧請。
あるいは、
十代崇神天皇の御宇、科野国造建五百建命が一川の地に創建し、
六十個の勾玉を納めて神宝とした。

当初の鎮座地から、後に磯並に遷座。
寛喜二年(1230)現在地に遷座。
式内社・玉依比賣命神社に比定される古社。

近世には、池田宮磯並三所大明神と称され
海津城築城以来、鎮守として代々の城主の崇敬篤く、
明治六年四月郷社に列し、昭和二十年十二月県社に昇格した。

当社の神宝・勾玉は、「児玉石」と呼ばれ
年々個数が増減すると言われており
毎年、児玉石神事の際に数を数え、
玉が増えていれば豊年、減っていれば凶年となるという。

最初は六十個だったが、
寛喜二年八月の洪水で社殿が大破して流出し
大石5個、中石7個、小石9個の合計21個になった。
その後、寛永三年(1706)には、292個、
安政四年(1857)には、692個、
昭和四年には、762個、昭和五十三年には784個。
案内板によると、平成二十三年は827個らしい。

主祭神は玉依比賣命
現在の由緒では、神武天皇の母神ということになっているが、
ひょっとすると、神武天皇とは無関係な
神宝の児玉石に因んだ神名なのかもしれない。

拝殿や本殿の屋根に六文銭が付けられていた。
江戸時代の松代藩主・真田氏の家紋だが、
当社の神紋かどうかは確認していない。

境内の左手に神庫らしき建物が二つ。
境内社が数社あるようだが確認していない。


参道入口

鳥居

境内

境内

拝殿

本殿

社殿

境内左手の神庫か

境内右手に登山口

玉依比賣命神社 由緒
<由緒>
 神社創建の縁起によれば、「人皇八代孝元天皇十六年四月 十六日東条斎川の地に勧請された」とあり、斎川は現在の岩沢 である。その後磯並(現在の中川)に移り、磯並三社大明神と称 した。現在の地に鎮座してのは寛喜二年(一二三〇年)と伝える。
 延長五年(九二七年)左大臣藤原忠平らにより撰進された 延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の 式内社の一つとして、その歴史は極めて古い。現社殿は天保四年 (一八三三年)に改築された、八棟造りを模した荘厳な建築である。
<祭神>
主祭神玉依比賣命(初代神武天皇の母神)
合 祀天照皇太神建御名方命素戔鳴命
<主たる神事>
御田祭 正月六日の午後、神社拝殿において古くから 行われている豊作祈願の神事
児玉石神事 御田祭の翌七日早朝より、神社の神宝で県宝 にも指定されている古墳時代からの翡翠の 勾玉・管玉などを主とした「児玉石」の数を 改める。平成二十三年は八百二十七個。今も 玉の数の増減でその年の吉凶を占う。
五穀御判事 児玉石神事の横で氏子総代たちが集まり作物 の神占いを行う。稲や大麦、小麦など九種類 の穀物の作柄の上・中・下を占う。
恒例祭 祈年祭、例大祭、新嘗祭、歳旦祭ほか

−社頭案内板−



【 玉依比賣命神社 (松代町)(印刷用ページ) 】

ボーダー




no index