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豊積神社
とよつみじんじゃ
静岡県静岡市清水区由比町屋原185  Zenrin Data Com Maps display !!


棕櫚葉

式内社 駿河國廬原郡 豊積神社
旧郷社

御祭神
木花之佐久夜比賣命

静岡県静岡市清水区(旧由比町)にある。
由比駅の北東1Kmほど、旧由比町役場の西300mの町屋原に鎮座。
狭い道路のそばに、南面して境内があり、隣にはお寺。

境内入口の鳥居をくぐると、
鬱蒼と茂った木々のために境内は暗い。
境内には、もう二基の鳥居があり、
境内右手には、大イチョウの木。
秋には、境内がまっ黄色になってしまいそうな雰囲気。
当社神事のお太鼓祭りは有名なようで、
境内左手には、太鼓の彫刻もある。

正面の社殿の後方には、
垣に囲まれて、流造の本殿がある。

長野から深夜の高速を飛ばして、休日の早朝に到着。
無人の境内には、朝日が射して、とても清々しい。

当社の創建に関しては、資料によって少し差異がある。

まず、境内案内では、
天武天皇白鳳年間に五穀の神として、豊受姫が祀られ、
延暦十年に、浅間信仰の普及から、神主への神託により
木花之佐久夜比賣命を祀る神社へ変化したらしい。

『平成祭データ』『静岡県神社志』では、
創建そのものが、延暦十年の四月となっている。

いずれにしろ、延喜式当時には、浅間神を祀る神社であり、
往古は、豊積之浅間大明神と称していた。
また、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、
木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と
父神である大山祇神の祇(つみ)から取られたという説もある。

坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り
宴を催したことから、当社の太鼓祭りが起ったという。

本殿のある垣の中に幾つかの境内社がある。
本殿左には、以下の末社五社。
山宮神社、日枝神社、須賀神社、稲荷神社、磯前神社。
本殿の右手にも小さな石祠がある。
本殿の垣の後方にまっすぐに延びる狭い参道らしきものがあり、
奥には赤い鳥居と、大楠、そして白髭神社の祠。
その位置から、当社の奥宮的な存在かとも思ったが、
詳細は不明。

浅間信仰から木花之佐久夜比賣命を祀る神社となり、
神紋も棕櫚葉の紋。屋根や賽銭箱に刻まれている。


社域

境内の鳥居

太鼓の石像

境内

社殿

本殿左の末社五社

本殿

境内の大イチョウ

本殿後方奥に白髭神社

本殿右に小祠

豊積神社由来
 延喜式神名帳に「駿河国廬原郡豊 積社」とあり、ここの地を町屋原と称 するは、古代において物々交換の市場 が営まれたところで社伝によれば 第四十代天武天皇の白鳳年間ここ に五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社 が創建されたと伝えている。
 平安時代に入り木花開耶姫を祀 る浅間信仰が広く流布され、延暦十年 (七九一)神主の夢想神託により木花 開耶姫を祭神とし、豊受姫は稲荷社 として境内社に遷宮された。
 延暦十六年、坂上田村麿が東征の 途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その 帰路戦捷報告に立寄ったのが旧 正月一日とあって、ここに戦勝祝賀 の宴が盛大に催され、大太鼓をくり 出し三日二晩夜を徹して町内をね り歩いた、これが今に伝えられる お太鼓祭りの起源とされている。

−境内案内より−


創建は恒武天皇の御代延歴一〇年四月上旬初未の日、西暦七九一年で今を去ること一二〇〇年前である。延喜式神名帳(九二七年)で蘆原郡三座豊積大神とあります。駿河国神名帳に正五位位下豊積大神とあるのは当社のことで古くは豊積之社浅間大明神とも申し上げたのであります。天正二年、朝比奈双白より黒印、慶長五年金阿弥、慶安元年徳川家光、五代将軍綱吉、八代吉宗、九代家重、一〇代家治、一一代家斉、一二代家慶、一三代家定一四代家茂、各将軍より御朱印を賜る。

−『平成祭データ』−



【 豊積神社 (由比町)(印刷用ページ) 】

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