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宗氏一族
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宗氏一族
そうしいちぞく

別名
初代:宗重尚
二代:宗助国
三代:宗経義
四代:宗頼義
五代:宗尚義
六代:宗貞義
七代:宗貞盛
八代:宗盛職
九代:宗貞国
十代:刑部少輔
十一代:宗貞秀(義盛)
十二代:宗盛弘
十三代:宗盛長
十四代:宗将盛
十五代:宗晴康
十六代:宗義尚
十七代:宗貞信
十八代:宗義純
十九代:宗義綱
二十代:宗義智
二十一代:宗義成
二十二代:宗義真
二十三代:宗義倫
二十四代:宗義方
……
  • 対馬の太守で、平姓を名乗った戦国武将の一族。
    上記の名前は江戸時代の『和漢三才図会』より転載したので正確かどうかは未確認。

  • 平氏が没落して新中納言知盛が戦死した時、一人の嬰児がおり、乳父惟宗という者が抱き逃げて隠れた。 後に大宰少弐(少弐は九州二島の長老である)に従事した。 かの児は成長してのち右馬助と名乗り数人の子がいた。

  • 右馬助の第二男は宗四郎左衛門尉(重尚)。寛元四年(1246)阿比留家を討ち取り対馬国を領し、初代宗氏となった。

  • 二代助国は弘安元年(1278)十月、蒙古が襲来して対馬を攻めた時応戦して死んだ。

  • 四代頼義は尊氏将軍に従って摂州和田水崎の戦功があり、九州の侍所職を賜った。

  • 六代貞義は応永二十六年(1419)、蒙古の兵船がまた当国仁位の郷の浦に来たのと相戦い大勝した。

  • 七代貞盛は嘉吉三年(1443)、朝鮮の国王と交信を結び貢物を渡した。 弟の盛世は、豆酘郡主。

  • 九代貞国は初め佐賀村を国府としたが、のちに与良郷を国府とする。対馬と朝鮮と勘合符を用いて通商する。

  • 十一代貞秀は朝鮮の兵道の珍書を得て将軍義尹公に献じた。将軍はこれを賞して諱の字を賜り、改めて義盛と名乗った。 これより対馬の屋形と称する。

  • 十二代盛弘は将軍義尹の命を奉じて朝鮮を攻め、二城を抜いて進み熊川城に至った。 朝鮮は大軍でこれを囲み、盛弘は終に戦死した。その霊がかの土地に現われ、人びとは恐懼した。 また対州豊崎郷高島浜に現われることがあり、社を建てて高島大明神と号する。

  • 二十代義智は天正六年(1578)従四位侍従に任じる。秀吉公は羽柴氏を賜う。 文禄年中(1592〜96)に秀吉が朝鮮を征した時に軍功が大そう多かった。

  • 対馬の伝説によると、安徳天皇は壇ノ浦にて源氏の包囲を脱出し、英彦山に潜伏して成人した。 その後、島津氏の女との間に、重尚助国の二子をもうけた。二人は対馬に渡って宋氏となり、対馬の領主となった。 安徳天皇は対馬に迎えられ、久根田舎に皇居を定め、七十四歳で崩御したという。

宗氏 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)

小茂田濱神社長崎県対馬市厳原町小茂田742
師殿神社長崎県対馬市厳原町大字豆酘字龍良山1250

【 宗氏一族:玄松子の祭神記(印刷用ページ) 】

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