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「郷土を救った人々 −義人を祀る神社−」 中国地方編
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 昭和五十六年、神社新報社より発行された 「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」 という書籍がある。

 帯には、
激流渦まく水中に自ら人柱となって消えていった人々!
十年、十五年と独力山中の絶壁に水路を掘りつづけた人!
農民のため漁民のために、すすんで自らの生命を捧げた人々!
来年の種のためにと、餓死をしてまで籾を残していった人!
それらの人々に対する郷土の信仰は、この日本がつづくかぎり決して消えることがない。

そんな、郷土のため、人々のために犠牲になった人達、尽力した人達を祀る神社が地方にはある。
このページでは、「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」に載っている神社の要約などを中心に列記する。
近くを訪れた際には、一度足を運んでみたいという僕の願望のリストなのだ。

本ページは中国地方(鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県)のリストです


鳥取県
弁天宮 鳥取県八頭郡八頭町郡家
【安藤伊右衛門命】
 文政十年(1827)の創建。文化・文政の頃、郡家地方は私都川の末流のため水の便が悪く、賀茂庄、土師郷の十四ケ村の農民は毎年水不足に悩んでいた。 安藤伊右衛門は藩に水利工事の許可を申請したが、藩の財政窮迫の状況から、工事費用の一切を自費で賄う約束で着工が許可された。 文政三年(1820)すでに七十歳になっていた安藤伊右衛門は陣頭に立って工事が着工され、三年間を要して10.8Kmの用水路・安藤井手は完成した。 村民はこれに感謝し、安藤伊右衛門の没後、安藤井手工事の安全を祈願して建立された弁天宮に安藤伊右衛門を合祀した。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
島根県
井戸神社 島根県大田市大森イ1372
【井戸平左衛門正明命】
 明治十二年(1879)の創建。八代将軍徳川吉宗治世の享保十六年(1731)、井戸平左衛門正明は石見銀山大森代官に任命された。 当時、享保の大飢饉によって収穫皆無の状態で、食糧は欠乏し人々の生活は困窮を極めていた。 井戸平左衛門正明は富豪を呼び集めて寄附を募集し、さらに救荒対策として薩摩から種甘藷(サツマイモ)を入手し、これを栽培させて難局打開に務め「芋代官さま」と崇められた。 また、幕府の許可を待たずに納税を免除し、官の米倉を開いて難民に分け与え、領内から一人の餓死者も出さなかった。 全責任を負って備中笠岡の陣屋に出頭し、享保十八年五月二十六日、自刃して果てた。
 永く「芋代官さま」と称して、その功績が伝えられ、明治十二年遺徳を偲んで社殿が創建され、大正七年県社に列した。
 当社の他に、大田市久手の苅田神社、江津市桜江町鹿賀の春日神社、島根県江津市桜江町谷住郷の八幡宮、江津市松川町下河戸の天満宮などの境内にも井戸神社が祀られている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
苅田神社境内 井戸明神 島根県大田市久手町波根西1942−2
【井戸平左衛門正明命】
 同じく「芋代官さま」井戸平左衛門正明命を祀る。
参考:「平成祭データ」
春日神社境内 井戸神社 島根県江津市桜江町鹿賀664
【井戸平左衛門正明命】
 同じく「芋代官さま」井戸平左衛門正明命を祀る。
参考:「平成祭データ」
八幡宮境内 金刀比羅社 島根県江津市桜江町谷住郷2252
【井戸平左衛門正明命】
 同じく「芋代官さま」井戸平左衛門正明命を祀る。
参考:「平成祭データ」
天満宮境内 井戸神社 島根県江津市松川町下河戸581−1
【井戸平左衛門正明命】
 同じく「芋代官さま」井戸平左衛門正明命を祀る。
参考:「平成祭データ」
都我利神社境内 中島治兵衛石碑 島根県出雲市東林木町672
【中島治兵衛命】
 江戸時代、寛文の頃、藩の検地において稲作が不可能な沼地にまで課税されたため、村人が強訴。その結果、多くの村人が捕縛された。
 村役人であった中島治兵衛は、自分が首謀者であると名乗り出て村人を助け、打ち首になったという。
 村人は、氏神の境内に石造の廟を建て祀ったが昭和五年に遷座され、跡に石碑を建てた。
参考:境内案内板
岡山県
垂水神社境内 石黒神社 岡山県真庭市落合垂水552
【石黒小石衛門政宇命】
 江戸中期の創建。寛延二年、鹿田代官に赴任した石黒政宇は、七年間領内の民政に尽力し、鹿田の繁栄を築いた人物。 宝暦五年、相川の大洪水で領内は大きな被害をこうむり、特に向波矢村は多くの人命を失った。石黒政宇は幕府に救済を求めたが、幕府は勝田郡日本原への移住を命じた。 だが、領民は先祖伝来の墳墓の土地を離れがたく、この地に留まる事を嘆願。石黒政宇は独断で減免を決定し、 食料・衣服・農具を貸与して村民を鼓舞して村の復旧を成し遂げた。
 復旧を見届けた石黒政宇は、江戸に上り、独断的措置を謝して諒解を得ようとしたが許されず、代官の任を解かれたため、宝暦六年、江戸からの帰路、駕篭の中で自刃して果てた。
 人々はその死を悼み、遺骸を鹿田大平寺境内に葬って墓碑を建立。向波矢村では結神社境内の小祠を創建して、その恩を代々に伝えた。 明治四十二年、結神社が垂水神社に合祀され、垂水神社境内社となった。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
沖田神社境内 おきた姫神社 岡山県岡山市中区沖元411
【おきた姫】
 平成八年の創建。元禄五年(1692)藩主池田綱政の命を受けて津田永忠によって、二千町歩の新田が開拓された。 沖田神社は、新しく開拓された沖新田の産土神として創建されたが、開墾の最後の潮止め工事に際し、 人柱として一身を捧げたのがおきた姫であるという。
 沖田神社本殿の床下に、「縁の下の力持ち」として祀られており、平成八年本殿裏に建立された。
参考:沖田神社HP
広島県
住吉神社 広島県尾道市土堂町10−12
【平山角左衛門尚任命】
 寛保二年の創建。江戸中期、商業が盛んとなった尾道で、新港造成の必要が生まれた。 尾道奉行として赴任した広島藩士・平山角左衛門尚任を工事責任者として、浜商人、尾道町人、近隣の農民たちが力を合わせて労働奉仕し、 寛保元年五月十日に新港は完成した。
 広島へ帰任する平山角左衛門尚任の功績を称えて、生祠を住吉神社境内に祀った。 この住吉神社は、浄土寺境内にあったものを浄土寺住職が平山角左衛門尚任に勧めて移転したもの。現在は住吉神社に合祀されている。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
甚五郎神社 広島県三原市宮沖町119
【甚五郎命】
 宮沖新開地は、元禄十三年(1700)、三原浅野氏により百二十二町歩の開拓を進められたが最後の潮どめが難しく工事は頓挫した。 そのため人夫の差配役であった甚五郎が選ばれて人柱となった。潮どめ工事が完了し、人柱となった地に甚五郎松が植えられ、 その根元に小祠が祀られた。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
千田神社 広島県広島市南区宇品御幸1
【千田貞暁命】
 大正十四年(1925)の創建。明治十三年広島県令に任じられた千田貞暁は、 太田川河口部が年々土砂に埋まって船の出入りに苦労しているのを見て、熱心に調査研究を進め、 宇品築港の計画を立て、明治十七年に着工。水害や暴風などにより堤防工事は困難を極めたが、 ついに明治二十二年に完成。千田貞暁はこの工事に私財を投じ、妻の着物まで売り払ったと伝えられている。
 大正四年、千田県令の功績を称え、銅像と記念碑が建てられ、大正十四年、銅像の側に神社が創建された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
八幡神社境内 若宮神社 広島県庄原市比和町古頃字小熊本58
【亀井美濃守清綱命】
 江戸中期の創建。宝暦十一年(1761)の夏、北備地方は大変な冷害で、一夜にして稲が全滅してしまった。 古頃八幡宮の社人であった亀井美濃守清綱は、古頃村宮谷郷倉支配を命じられ、公用米倉の鍵を預かる人物であったが、 次々と餓死していく村人を見るに偲びず、一命にかえて公用米倉を開け、人々を救ったが、 藩の倉を無断で開けた罪は重く、宝暦十二年(1762)当根ケ原の刑場で処刑された。
参考:「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」
九郎神社 広島県東広島市八本松町米満字片山226
【坂瀬川九郎命】
 元慶二年(878)の創祀。この地方は湿原で大雨が降ると飯田より流出する水で川が逆流するため坂瀬川と呼ばれていた。 この土地の坂瀬川九郎という者が、水利を考え排水の方法を講じて田を開き五穀耕作の道を開いた。 よって当初の鎮守として祀られたという。米満開田の際に掘り出されたと伝えられる自然石の手水石が今も神前に残る。 いつしか坂瀬川九郎の話は忘れられ、源義経を祀る社との説もあり、現在の祭神は伊弉冊命である。
参考:「広島縣神社誌」
本莊神社 広島県福山市松永町5−41−17
【本莊重政命】
 宝暦九年(1759)松永村庄屋、村上久兵衛、岡本喜与八、村民と相謀り、本莊重政公を松永村開祖と敬い、 承天寺境内にその霊を祀って社殿を創建。本莊社と称して毎年四月十五日を以て祭礼を行って来た。 本庄(本莊)重政公は福山藩主水野氏に仕えた本庄重昭の嫡子として生まれたが家督を弟重幸に譲り、 江戸に出て兵法を修業し島原の乱の際には戦功をたてた。 岡山藩主池田光政に仕えた後、福山藩に帰った彼は万治三年(1660)春より松永湾岸に堤防を築き、 塩田を開き、街並みを整備して、数年で町を繁栄させたという。延宝四年(1676)二月十五日没(享年七十歳)。 墓は自らが建立した承天寺の墓地にあり、広島県の史跡となっている。 なお、天保二年(1831)本莊重政公の故居である現在地に遷座。明治二十五年には幣殿・拝殿を再建した。
参考:「広島縣神社誌」
若宮社 広島県山県郡安芸太田町平見谷真峯702−1
【おゆき命】
 当地では、享保十七年(1732)さはえ虫の異常発生によって収穫がなく餓死する者多く、 庄屋が直訴したが入牢となった。庄屋の娘おゆきが身代わりとして出向し、城下の牢にて死んでしまった。 人々はその霊を祀って若宮(丸子社)と称した。
参考:「広島縣神社誌」
御津女八幡神社 広島県庄原市高野町岡大内5151
【御津女宗正命】
 応保年間(1161〜3)当地大飢饉のおり、長者であった御津女宗正は米蔵を開き、 田畑を処分して庶民救済に当たった。そのため、御津女家は破産し家も絶えてしまい、 同家が崇敬していた神社も朽ち果ててしまった。 里人等は、その遺徳を讃え、養和元年(1181)神社を再建し、御津女社と称した。 その後、首藤通資が地頭職となり鶴岡八幡宮を勧請して、御津女八幡神社となった。
参考:「広島縣神社誌」
山口県
亀山八幡宮境内 おかめ明神 山口県下関市中之町1−1
【お亀さん】
 亀山八幡宮境内が島であった500年前、馬関(下関)開発のため人柱として海底に消えたお亀さんを祀ったもの。 当時の人々はお亀さんの功績を称えで銀杏の木を植え、お亀銀杏と呼ばれていた。昭和の戦禍によってお亀銀杏は焼失したが 焼跡から新芽を出し成長した。お亀ぎんなんと呼ばれる実には不思議なことに無数の斑点があり、お亀さんの顔のあばたが現れたものと伝えられている。
 平成元年、氏子崇敬者の奉賛により境内を整備し、池を整え玉垣をめぐらした。
参考:境内案内板


【 郷土を救った人々 −義人を祀る神社− 中国地方編(印刷用ページ) 】

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