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穴森神社
あなもりじんじゃ
大分県竹田市神原1432
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式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社 |
祖母山山麓、神原の集落から南東500mほど。
道路脇に赤い鳥居があり、そこから山中へ。
ところが、登っていくと、地図にない大きな道路に出た。
こっちの道の方が遙に広く新しく損した気分。
その道路脇に社号標があり、少し登ると参道。
健男霜凝日子神社は、祖母山頂(1756m)に石祠の上宮、
神原集落に遥拝所、下宮、そして穴森神社で構成されている。
穴森神社の古名は池神社。
拝殿後ろに岩穴があり、石祠がある。ここが昔池だった。
右手に洞窟があって、中は真っ暗。不気味。
『平家物語』の「緒環おだまき」にある、緒方惟義の先祖
嫗嶽大明神の化身大蛇がここに住んでいたという。ちなみに、緒環説話は、
三輪山の蛇神婚姻譚と同型の説話で、緒方氏の祖も大神氏。
参道入口の石鳥居は、なぜか崩壊していた。
拝殿後ろの岩穴の洞窟脇に懐中電灯があり、
「参拝者の利便」と案内にあるが、一人だと恐怖。
境内社は石祠が二つ。
どちらがどちらかは調べていないが、生目社と淡島社のようだ。
参道入口の赤鳥居 | 参道鳥居 |
階段を下りると境内 |
拝殿 | 生目社と淡島社 |
拝殿裏の岩穴、右横に洞窟がある | 穴森大杉 |
穴森伝説の概要 この洞窟は嫗嶽大明神の化身である大蛇の棲息した処と謂われ 往古は水を湛えていたが中川藩主が現在の如く水を放出し民心を 鎮む。 元禄十六年十月この洞窟より大蛇の骨が発見され宝永二年藩 命で現在の岩穴に神体として祀る。(往古は池の明神、中古は 窟(いわや)大明神又は穴森大明神と唱う) この大蛇は大神姓の神婚伝説の主役であり平家物語、源平 盛衰記に見ゆる緒方三郎惟栄の遠祖(いとおそろしきもの)と 謂われている。 この度子宝神授の神の鎮守されたこの神聖な洞窟内に照明 の設備を行い縁故参拝者並に一般参拝者の利便に供す。 −境内案内より− 穴森神社由来古くは池の明神、窟大明神、近代(一七〇三年)に至り、穴森大明神と唱される。 往古、この地に冬でも青葉繁り、満々と水をたたえる一町歩ばかりの池があり、その中には大蛇が棲んでいた。 里人はこれを御神体と崇め、四季の祭を行なっていたが、一度でも祭が粗末に行われると天候急変し、里人を苦しめる禍が起きた。 岡藩主中川久清公はこれを憂慮し、「住民を困らす神」があるはずはないと奉行に命じ、大暴風雨の中数日を要して「池さらえ」を為し、今日の態様にしたと伝えられている。 以後、禍は皆無となった。 −『平成祭データ』− 彼維義はおそろしきものの末なりけり。た とへば、豊後国の片山里に昔をんなありけり。 或人のひとりむすめ、夫もなかりけるがもと へ、母にもしらせず、男よなよなかよふ程に、 とし月もかさなる程に、身もたゞならずなり ぬ。(中略)むすめ母のをしへにしたがツて、朝 帰する男の、水色の狩衣をきたりけるに、狩 衣の頸かみに針をさし、しづのをだまきとい ふものを付て、へてゆくかたをつなひでゆけ ば、豊後国にとツても日向ざかひ、うばだけ といふ嵩のすそ、大なる岩屋のうちへぞつな ぎいれたる。(中略)岩屋内より、臥だけは五 六尺、跡枕べは十四五丈もあるらむとおぼゆ る大蛇にて、動揺してこそはひ出たれ。狩衣 のくびかみにさすとおもひつる針は、すなは ち大蛇ののウぶゑにこそさいたりけれ。女是 を見て肝たましゐも身にそはず、ひき具した りける所従十余人たふれふためき、おめきさ けむでにげさりぬ。女帰て程なく産をしたれ ば、男子にてぞありける。母方の祖父太大夫 そだてて見むとてそだてたれば、いまだ十歳 にもみたざるに、せいおほきにかほながく、 たけたかかりけり。七歳にて元服せさせ、母 方の祖父を太大夫といふ間、是をば大太とこ そつけたりけれ。夏も冬も手足におほきなる あかゞりひまなくわれければ、あかゞり大太 とぞいはれける。件の大蛇は日向国にあがめ られ給へる高知尾の明神の神躰也。此緒方の 三郎はあかゞり大太には五代の孫なり。かゝ るおそろしきものの末なりければ、国司の仰 を院宣と号して、九州二嶋にめぐらしぶみを しければ、しかるべき兵ども維義に随ひつく。−『平家物語 巻八 緒環』− |
【 穴森神社(印刷用ページ) 】