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道神社
みちじんじゃ
富山県氷見市中田1499
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式内社 越中國射水郡 道神社 |
富山県氷見市にある。
氷見駅の北13Kmほどの中田に鎮座。
富山湾を右手に見ながら160号線を北上し、
下田川を渡ったあたりで西に入り、300mほどで北へ。
狭い道路沿いに参道入口があり、「道神社」と刻まれた社号標。
参道の坂道を上ると社域の森。境内入口には石鳥居が立っている。
鳥居をくぐり参道を進むと寺院のお堂のような宝形造の拝殿。
この拝殿は、元は石動山山頂にあった天平寺の開山堂を買い取ったもの。
天平寺は、山頂の伊須流岐比古神社の別当・石動寺。
白山に次ぐ修験道の拠点として繁栄し、広大な寺領と多くの僧兵を擁し、
加賀・能登・越中・越後・佐渡・飛騨・信濃の七カ国からの
知識米の徴収を許可された大勢力であったが、
明治維新の神仏分離によって寺領を没収され経営困難となって解散した。
その開山堂を中村村が買い取って、当社の拝殿として再建したらしい。
建立は享和元年(1801)。
宮大工は石動山南麓の大窪村の藤岡信濃守藤原富綱。
(『富山県神社誌』では藤岡信濃守門弟大窪弥三右衛門)
彼らは尾張国建仁寺流の宮大工で、前田利家に従って移住して来たという。
拝殿の後方には、新しい幣殿と本殿があるが、
本殿の前に横に広がった変わった形の幣殿がある。
創祀年代は不詳。
中田の産土神として崇敬されてきた古社。
貞享元年(1684)、正徳二年(一七一二)の書上帳には
大御堂道神社と記されているらしい。
式内社・道神社の論社の一つで、祭神は猿田彦神。
他の論社が道君の氏神であるのに対し、当社は道の神を祀るため
『式内社調査報告』では論社として扱われていない。
式内社というよりも石動山(あるいは能登)への道の守り神を祀った神社なのだろう。
拝殿前の神馬像に桜の紋が付けられていたので
桜紋が当社の神紋だと思う。
なお、本殿には三つ巴紋が付けられていた。
境内右手には、湯立釜と立石がある。
湯立釜は開山堂買い取りの際に譲り受けたもの。
石動山伊須流岐比古神社五社中の梅宮の湯立神事で用いたものらしい。
立石は参道前の小川にかかっていた橋の石で、
この石橋が石動山天平寺の寺領の境界だったという。
さらに右手に旌明神と刻まれた石がある。
『平成祭データ』には、当社の末社として
火神社と諏訪社の二社の名が載っているが境内にあるようだ。
社頭 |
鳥居 | 境内 |
境内社殿 |
神馬像に神紋 | 文化財の拝殿 |
本殿・幣殿 | 宝形造の拝殿 |
元石動山梅宮の湯立釜 | 旌明神 |
富山県指定有形文化財(建造物)
道神社拝殿 附棟札二枚
平成五年八月十八日 指定
この建物は、元は石動山天平寺の開山堂として、享和元年(一八〇
一)に建立された。大工棟梁は射水郡大窪村の藤岡信濃守藤原富綱で
ある。明治維新により、石動山が寺領の没収や七カ国知識米勧請の停止な ど、一山の経営ができなくなったため、諸堂を売却した際、中田村が 道神社の拝殿として買い受けたものである。 形式は宝形造、屋根は杮葺で、軒下は二軒扇垂木、三手先、詰組、 尾垂木、蛇腹支輪で装飾する。軒出が三・一八メートルと深い。正面 の桟唐戸は、中央間には梅の透かし彫り、両端間には牡丹の彫刻を配 している。 平成十二・十三年度に瓦葺を杮;葺に復元するなどの大規模修理を行 い創建当時の姿によみがえった。 なお、享和元年(一八〇一)に建立した際の棟札と、明治十年(一 八七七)に現在地に再建したことを記す木羽板が附指定となっている。 −境内案内− |