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諏訪社
すわしゃ
富山県富山市諏訪川原1−10
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旧村社 |
富山県富山市にある。
富山駅の南西1Kmほどの諏訪川原に鎮座。
富山市内軌道線・諏訪川原駅の北に道路に面して南向きの境内がある。
境内入口には落ち着いたい色の赤い鳥居。
鳥居の左側に「諏訪社」、右側には「富山縣神社廰」と刻まれた社号標。
当社境内敷地内に富山県神社庁がある、
鳥居をくぐると右手に手水舎、正面に四角い池がある。
昔は自然の池だったが、現在は防火用水として整備されているようだ。
池の北側に瓦葺入母屋造の社殿。
境内は駐車場を兼ねているようで全面アスファルト。
街中の神社なので参拝には便利だが、少し味気ない感じではある。
参拝は10月後半の昼ごろ。
池に陽光が反射してキラキラと光っていた。
当社の通称は「亀の宮」。境内の片隅に亀を慰霊する「亀の碑」が建っている。
昔は多くの亀が棲みついていたらしく、現在の数匹の亀が棲んでいる。
参拝後、池をのぞくと、中央に石組までの石の上に亀が甲羅干しをしていたが
カメラを持って近づくと、みんな池の中に逃げてしまった。
社伝によると、第五十八代光孝天皇の御代(在位、884〜887)の創建。
当時、近江の伊吹山に鳧彦(かもひこ)という悪党がいて北陸地方の人々を苦しめていた。
天皇は見かねて、越前の甲賀三郎と越中宮川庄高柳の郷田次郎に討伐を命じた。
二人を伊吹山の鳧彦を討ち、さらに飛騨から越中に進んで各地の悪党を退治した。
越中に入り、甲賀三郎はしばらく郷田次郎の家に滞在していたが
ある日、一人で広い川原へ出かけると大きな穴を見つけ、
中をのぞくと一人の美しい姫が助けを求めていた。
姫を救出し帰ろうとしたところ、姫は穴の中に母の形見の鏡を忘れてきたという。
そこへ、三郎の帰宅が遅く心配した郷田次郎が探しに来た。
三郎は次郎に事情を話し、次郎と協力して穴の中から鏡を取ってこようと決め、
次郎にあげまきの端を持たせ、三郎が穴の中に入った時、
次郎は姫のあまりの美しさに心を奪われて邪心をおこし、姫を妻にしようと、
持っていたあげまきを放して三郎を穴の中に落としてしまった。
その時、姫の顔はたちまち怒りに満ち、
「私は諏訪の神である。せっかく楓が原で親切な三郎と出会えたのに、
お前のせいで三郎は信州へ去り、私だけが残されてしまった。
今後、池水が濁れば、人も住むことが出来なくなるだろう」と言い残し姿を消した。
残された次郎が大穴をみると、穴から清水が湧き出て池となっていた。
次郎はひたすら神に罪をあやまり、池の畔に小祠を作って諏訪大神と崇め祀ったという。
似た話として『神道集』に諏訪明神の本地である甲賀三郎の話がある。
こちらは兄である次郎によって穴に落とされた三郎は
穴の中の世界を彷徨い、戻って来た時には蛇の姿になっていたという話。
当社は亀で、信州の諏訪は蛇と、ともにハ虫類を神格化しているようで面白い。
当社の神紋は未確認。
諏訪社なので梶だとも思うが、社殿の屋根には柏紋らしき紋が付いていた。
鳥居 | 手水舎 |
境内と池 |
亀の碑 | 社殿 |
池、さっきまで亀が数匹いた |
社殿から池 | 逃げた亀 |
社殿 | 社殿 |
諏訪社の由緒と造営
当社は千百年前の第五十八代光孝天皇の御代に創建されている。
御祭神は大国主命の御子武御名方命と玉姫稲荷神である。戦前は境内
広く深い自然の池に多くの亀がすみつき、市民に「亀のお宮さん」と
云われ親しまれていた。昭和二十年八月の戦災にて悉く焼失したが、昭和二十七年九月氏子各位 有志の御力添えによって現在の社殿が奉建された。更に本年三月池が 防火用水として修理完了した。その後新たに回廊が作られ社標灯籠が 増設され玉垣二百五十九柱が造営された。 昭和六十一年九月吉日
諏訪社宮委員会
−境内石碑より抜粋− |