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稲村神社
いなむらじんじゃ
茨城県常陸太田市天神林町3228

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式内社 常陸國久慈郡 稻村神社 |
茨城県常陸太田市にある。
常陸太田駅から瓜連駅へ向かう道を、西へ3Kmほど。
佐竹寺の裏側にある狭い道を入ると、参道の入口があり、
300mほどの、かなり寂しい参道がまっすぐに北西へ延びている。
参道の突き当たりに鳥居があり、階段上に神門。
神門内の境内は、右手に社殿や神楽殿があり、
左手の境内の端に、ズラッと祠が並んでいる。
創立年代は不詳。
一説には高倉天皇の御宇の鎮座。
あるいは、景行天皇の御宇、日本武尊によるとも。
当社は、もともと天神社と呼ばれており、
元禄以前は、天満宮と混同され、祭神は菅原道真であった。
江戸時代、水戸光圀公が、当地周囲の七社を、
七代天神の社と比定し、当社へ合せ祀ったため、
祭神は神世七代の神々となった。
当社近くに佐竹寺が存在し、佐竹郷の中心地であった。
佐竹の名は、饒速日尊に随った狭竹物部に由来すると考えられ、
また、久自国造は物部系氏族であったということから、
明治以降、現在の主祭神は、饒速日尊。
当社は、式内・稲村神社の論社だが、
従来、稲村神社とよばれていたわけではない。
鎮座地の天神林の隣りに、稲木という町があり、
天神林の存在と、この稲木を史料では稲村と誤記されたというのが理由。
神紋は葵。光圀崇敬の神社だからだろうか。
場所的にも、雰囲気も、ひっそりとした神社。
とにかく静かで良い。
ニ三日、こういう神社に籠ってみたい気がするが、
実際に籠ったら、寂しさに耐えられないかもしれない、
と思いながらの参拝だった。
参道の鳥居 ![]() | 参道 ![]() | 階段を上って神門 ![]() |
神門前の鳥居 |
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境内から神門 ![]() | 境内 ![]() |
拝殿 |
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本殿 ![]() | 本殿 ![]() |
境内に祠が並んでいる ![]() | 境内社 ![]() |
稲村神社
この社は、久自国造の祖神饒速日命並びに七代天神を奉斎した神社
で延喜式、続日本後記、日本三代実
録などに載っている古社である。昔、
日本武尊が東方征討の折、天神七代
の神々を間坂外六ヶ所にまつって戦
勝を祈願したと伝えられ、元禄六年
(一六九三年)、西山荘に隠棲してい
た水戸第二代藩主徳川光圀(義公)
は、これらの神々を稲村神社に合祀
して七代天神宮と称し、社殿を修理
し、扁額をかかげ、神宝を奉納し、
自ら祝詞を奏上して鎮座祭を行っ
た。その後も光圀は、たびたびこの
社に参詣した。現在の本殿は後に
建てられたものであるが、神明造り
の特色をよくあらわしている。−参道入口の案内板− 久自国造に物部連の祖伊香色雄命三世、孫船瀬足尼が任命されたとき大祖饒速日命を祀つたといふ。 物部氏族二十五部の中に狭竹物部あり。居住によつて佐竹郷の起因となる。もと祖神を祭るのに天神に 出し故に天神と呼称、又神鏡七面があつたので、七代天神とも云つた。嘉祥2年4月庚寅官社、水旱に 霊験著大(続日本後紀)元慶2年8月23日丙戍正六位上から従五位下、仁和元年5月22日丙午従五 位上、位田十二町(三代実録)延喜の制小社(延喜式)久慈郡七座の一、常陸二十八社の一。 一説に景行天皇四十年日本武尊東征の際この地に天神七代の霊を祭ると。元禄4年4月水戸光圀公石 塚へ赴く途次、佐竹村に立ち寄り里正、神主に案内させて天神と称する七社を巡見し(天神山間坂、小 芝原、権現山、井之手、富士山、厳戸山)宜しく一社となすべしと諭し、現在地に合祀させた。同6年 社殿竣功、公親扁額に七代天神宮と書し鳥居にかけさせ、又理神鏡七面四神旗、矛、諸神宝を献じ9月 5日遷宮式、11月26日公自ら本社に詣り祭器を点検し、27日より斎戒3日、29日公衣冠をつけ、 日蔭心葉をかけ太刀を帯し、親臨して祭事を厳修した。神主信秀奉仕、この時用ひし竹架長さ七尺、高 さ五尺、藤蔓を以て縛す。兎鯉各七、狸七、雉雌雄各七を供ふ。祭礼は4月8日(磯浜神幸)11月1 7日に斎行。(新編常陸国誌)除地9石9斗3升。 明治3年1月4日郷社列格、同40年4月10日(第78号)供進指定。同27年6月16日宗教法 人設立。昭和2年5月、同14年12月、同29年1月、同42年11 月、本殿・拝殿屋根替。 −『平成祭データ』− |
