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天岩戸神社 東本宮
あまのいわとじんじゃ ひがしほんぐう
宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸
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旧村社 |
高千穂町の中心から北東へ7、8Km。
岩戸川沿いを走ると、道路脇に西本宮の駐車場があるが、
その少し手前の信号で、右折し、岩戸川にかかる橋を渡る。
橋を渡ってすぐ左手に駐車場があり、鳥居がある。
参道では、氏子の方々による清掃作業の真最中だった。
作業をしている人々の間を縫って、階段を登る。
登りつめると鳥居があり、境内。
暗く、鬱蒼とした森に鎮める社殿。静かな神域。
振り返ると、明るい参道で、多くの方々が雑草刈りの最中。
二つの時間、二つの空間が、僕を挟んで存在している。
そんな錯覚を感じながら、境内に足を踏み入れる。
東本宮には本殿がある。
創祀年代は不詳。
社伝によると、天孫瓊々杵尊によって鎮祭されたという。
岩戸川を挟んで、対岸に、西本宮があり、
当社・東本宮に天照皇大神、西本宮に大日孁尊を祀る。
御神体は岩屋で、天照皇大神の岩戸隠れ神話に因む。
弘仁年間(810〜824)、
越前守親武の始祖・大神大夫惟友によって再興され、
文政四年(1821)、当村庄屋発起のもと社殿を造営。
幕末には藩主・内藤氏によって篤く崇敬された。
社殿裏には、年間を通じて渇水することがないという御神水があり、
そこから100mの地点には樹齢六〇〇年に樹根で繋がった七本杉がある。
ただし、七本杉は、天岩屋に近く御神域であるため、立入り禁止。
入口の鳥居 |
清掃中の参道 | 参道 |
鳥居 |
社殿 |
本殿 | 拝殿 |
社殿裏の御神水 | 御神水から本殿 |
御由緒 古事記、日本書紀等に皇祖天照皇大神は御弟素盞嗚尊を御避け遊ぱして暫く天岩戸へ御籠 り遊ばされた事を記して居ますが、当神社は其の霊蹟天岩戸を斎ひ奉る神社で、 天孫瓊々杵尊御降臨あり、初て天が下知食し給ひし時に斎ひ創め給はれたと伝へます。境内社殿の 背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神籠らせ給ひし処と伝ヘ、古より其の御神域を御神体 としてお祭り致して居ります。社殿は東本宮と天岩戸直拝の西本宮と岩戸川の渓谷を挟み 相対して御鎮座ましますが東本宮関係の昌泰の記録に天照皇大神、天岩戸より御出ましの 節、思兼神其の御手を取りて東本宮の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあ ります。弘仁壬辰三歳中秋には三田井候の遠祖、大神大太惟基公霊夢に恐惶して頽廃せる 社殿を再興し深く其神明を崇敬したと申します。又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽三十 三番の古雅なる手振を伝へ氏子達習ひ伝へて祭典に奉奏する外、毎年十一月下旬より二月 初旬にかけ、各部落において、民家に〆かざりして終夜舞続け黎明に及びて岩戸開きと称 するを舞納むる慣習があります。住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎 の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀礼参し、水戸の烈土井上主人義秀等八名参籠して俳句 「落つるには 手もなきものよ蝸牛」を残して居ます。又大宝の昔京都神祇官卜部朝臣参 拝の記録あり相当古くより中央に認られて居た事が考へられます。皇室の崇敬も厚く秩父 宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始 め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝がありました。 ◎天安河原 天照皇大神天岩戸へ御籠り遊ばされた時に、八百萬神は天安河原へ神集神議りになった事 を古事記等に記してありますが、天岩戸神社より五百米川上の此の天安河原は其の御相談 の場所であると伝へます。此の河原の一角に「仰慕窟」と称し間口四十米、奥行三十米の大 洞窟があり、本州からも、願事がかなう、中風にかからないとの信仰があり、沢山の石を 積み重ねて祈願する慣習があります。 ◎天香久山 天岩戸神社の西方二粁の所にあり。 大玉命が此の山の真榊を根こぎになして天岩戸の前に御植になり八咫の鏡や八坂瓊の勾玉 等を御かけになったと伝へます。 ◎神楽屋 神社の西北方四百米の所にあり。 天照皇大神、天岩戸へ籠らせ給ふ時、天鈿女命舞を奏せられた所と伝へます。 (神楽尾の地名は慶長年間の庄屋の土地台帳にも記してあり、又高山彦九郎の日記にも此 の地にて神楽を奏した所だと記してあります) ◎小戸の檍ケ原 伊邪那岐尊の禊の蹟であると伝へます。 ◎郷土の出土品 村内各所より古代土器(縄紋式、弥生式)石器及び勾玉・管玉・刃剣類が 発見され、当社に二千点余保存されています。 −リーフレットより− |
【 天岩戸神社東本宮(印刷用ページ) 】