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水神社
みずじんじゃ
長崎県壱岐市勝本町布気触字明神440−1
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式内社 壹岐嶋壹岐郡 水神社 |
郷ノ浦港から382号線を北上し、7Km程度で、左折する。
と書きながら実はよく分かっていない。
壱岐の道、特に脇道には目印になるものが少なく、
ここでも、やはり道に迷ってしまった。
「ここは何処?」状態で走っていると、
公園でゲートボールをしてる、年配の方々に遭遇。
現在位置と水神社への道を、
その場の全員に取囲まれながら、地図を広げて聞く。
が、国土地理院の地図では、よく分からないらしく、
いろいろと議論をしながら、「ああ行け」「こう行け」と
口頭で、道順を教えていただいたが、半分しか理解できなかった。
とりあえず、近くまで行って、目に付いた脇道に車を入れると、
鳥居があり、社前に到着してしまった。
当社は、延宝年間、橘三喜によって式内に比定された。
鎮座地名が、「水の本」というのがその理由らしい。
延宝以前の祭神は、罔象女命であるから、水神を祀っていたことは確か。
また、ある書には、菅原道真を祭神とする天神とある。
そのためか、神紋は梅鉢紋だった。
なお、半城の河原神社が当社の古社地とする説があるらしい。
帰りは、太陽の位置を確認して東を目指して、382号線へ。
上の写真は、参道から振り返って撮影したもの。
入口の鳥居左手には、古びた石祠や石碑が並んでいる。
鳥居も古い肥前鳥居。緩やかに上る参道の途中にも鳥居がある。
周囲は山と畑。水神社なので、清流を期待していたのだが、
見当らなかった。
境内社らしき建物の前に、狛猿が置かれていた。
庚申社だろうか。
『式内社調査報告』には、境内社として
庚申社、稲荷社、金毘羅社、若宮社、山神、岬宮が載っている。
境内入口の鳥居 | 参道 |
参道 |
拝殿 | 拝殿 |
本殿 |
境内社 | 狛猿 |
水神社(旧式内社) 旧称 布気天神、天満天神 位置 勝本町布気触四三二番地 祭神 速秋津日命(延宝年間以前は罔象女神) 相殿 菅贈相国(菅原道真) 祭日 十一月二十五日(以前は八月二十五日) 境内社 庚申社 稲荷社 金毘羅社 若宮社 山神 岬宮 現宮司 吉野六男 鎮座の年は不明であるが、文徳天皇の仁寿元年(八五一)正月に正六位上に叙され、以後神階を進められた。 『壱岐神社明細帖」に「立石村、湯之本之内百三十九戸氏子、社地、二反四畝二十二歩、無税地、造営民費」とあ る。『壱岐名勝図誌』に「当社元ハ天神と称せしを、延宝四年(一六七六)式社改の節、水本という地名に依て、神名 式の水神社なりとす」とあり、橘三喜は壱岐島の式内社を調査して、本社を壱岐郡小社水神社とした。平戸藩主・松 浦鎮信は御正体(木鏡一面)と石額を献進した。明治九年(一八七六)村社に列せられ、同四十三年十月、神饌幣帛 供進神社に指定された。 『延喜式神名帳』に「壹岐島壹岐郡水神社小社」、『壱岐国神名記』に「布気村水神社、小、改以前は天神と云う。式 外。」、『壱岐国神社帳』に「水の本、水神社、小神、二十四座之内」、『神社書上帳』に「布気村の産神也、祠官並に長 寿院の僧一同に初祈祷相勤候事」、『太宰管内誌』に「神體の銘に云う奉講再興天満天神御神體之事、于時大永七(一 五二七)丁亥年八月日、本願主右京助同宮方主各々等、七條之末流宗久、之は相殿にます御靈形也」とあり、靈形を 再興したことがわかる。伊能忠敬の『壱岐嶋図説』に「水神社布気村水の本、所祭速秋津日命」、『寛政十一年巳未正 月改壱岐国中人別帳』に「水神社、布気村、祠官十八神道、吉野右近、年五十六才」、『壱岐国惣図打添』に「布気村 宗社、水神社、式内二十四座之内、祭日八月二十五日、祠官吉野右近、祭神速秋津日命、嵯峨天皇草創、神宝木鏡一 面、石額一双、延宝四年六月源鎮信公御奉納」、とある。 −『勝本町史』− |