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阿豆佐和氣命神社
あずさわけのみことじんじゃ
東京都利島村1  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴

式内社 伊豆國賀茂郡 阿豆佐和氣命神社
旧郷社

御祭神
阿豆佐和氣命
合祀 下上御方(阿豆佐和氣命の后神)
配祀 神武天皇

東京から140Km南にある利島にある。
利島は円錐形の島で、周囲わずか8Kmの小さな島。
東京からは大型客船やジェット船、ヘリコプターなどが利用できる。

僕は、大島に宿をとっていたので、早朝の大型客船で到着。
船を下りて見上げると、見事な神奈備・宮塚山が目の前にある。


港から宮塚山

利島は北側の前浜に港があり、島の北部に集落が固まっている。
当社は、港から坂道を5分ほど登った、集落の中に境内がある。

坂道の途中に境内入口。
階段を登ると鳥居があり、鳥居の左手に案内板が設置されている。

境内に入ると、左手階段上に境内社・道祖神社がある。

参道正面に拝殿があり、拝殿の後方に垣に囲まれて本殿や境内社が並んでいる。
本殿は覆屋の中にあり、右手に少し小振りな三島神社の祠がある。

本殿前の左右に境内社の祠が並んでいる。
左奥から
鵜渡間神社・山川神社、西宮神社、御戸口神社、大島神社、
大三王子神社、若尊神社、白浜神社、大山小山神社。
右奥から
貴宮神社・天津神社、姫宮神社、三宅島神社・神集島神社、
海龍王神社、疱瘡神社。

資料によると本殿は宝暦十年に改築されたものらしいが
今の本殿は、それほど古いようには見えなかった。
本殿覆屋の裏に廻ってみると
もう一つの覆屋があり、中に朽ちかけた朱の社殿があった。
これが、昔の本殿。

通称は明神様。
創祀年代は不詳。

式内社・阿豆佐和氣命神社に比定されている古社。
祭神の阿豆佐和氣命は、三島大神(事代主命)の王子。
配祀の后・下上御方とともに利島開創の始祖。

江戸時代以降は神仏混淆していたという。

当社は本来、島の南にある・南御神山に祀られていたが
参拝不便のために、現在地(集落内)に遷座された。
旧社地には、阿豆佐和氣命本宮として祠が祀られている。

境内の南側傾斜地は、十三世紀から十八世紀祭祀遺跡で、
壇上積石と小祠群があるらしい。


社頭

鳥居

入口左手の境内社・道祖神社

境内

拝殿

本殿と三島神社

左手境内社

右手境内社

本殿

本殿覆屋の後に、もう一つ

中に朱の社殿

阿豆佐和氣命神社 あずさわけのみことじんじゃ
御祭神阿豆佐和氣命
合祀神下上御方
配祀神神武天皇
祭 礼歳旦祭 一月一日 弓矢の祭 一月一日
年の日祭 一月二日以降の初酉の日(当神社の干支は酉) 筒粥祭 一月十四日
祈年祭 二月十七日 蟲乾祭 七月七日
新嘗祭 十一月二十三日 例大祭 十二月二十七日
除夜祭 十二月三十一日 大祓祭 六月一日と十二月三十一日
 例祭の十二月二十七日は御祭神の命日(御崩れ日)と伝えられる。例祭に先立ち十二月二十四日、神職 と年男(注連縄・御札作り。他神職の補佐役)は南御神山にある御陵(祭神の御崩れとなった所と伝わる)と一・ 二・三番神社を巡拝し、正月の注連縄飾りやオッテングラを立てに行く。これ以降元日まで、御神山以奥 の山への一切の人の出入りが禁止される。
境内神社
 道祖神社 三島神社 山川神社 宇渡間神社 西宮神社 御戸口神社 大島神社 第三王子尊  若尊神社 白浜神社 大山小山神社 天津神社 姫宮神社 貴宮神社 三宅島神社 神津島神社  海竜神社 疱瘡神社
由来沿革
 創祀年代は不詳であるが、平安時代の日本文徳天皇実録には嘉祥三年(八五〇)従五位下を奉授、さ らに仁寿二年(八五二)加従五位上、斎衛元年(八五四)正五位下の位階加授とある。又康保四年(九 六七)施行の延喜式神明帳に国幣小社阿豆佐和氣命神社の記載があり、当神社の歴史はさらに遡る。 神社は当時南御神山に在ったが、後の時代に現在地に遷座された。旧神社地は今の阿豆佐和氣命神社本 宮(一番神社)である。古の記録は今は無く、口碑によれば、祭神阿豆佐和氣命は伊豆諸島の造立神であ る三島明神の御子で、明神が利島に御垂迹の際、御子と同后を本島に留められ生涯本島開創に携わらせ た。御崩れ後、島の南を夫神阿豆佐和氣命の鎮座御神山に、東を比売神下上御方の鎮座御神山とし、長 く鎮祭されていた。しかし参拝の不便、且つ村の鎮守守護の為に当所に遷座された。その時期は今より 六百年前(室町初期から同中期頃)の事と伝えられている。明暦二年(一六五六)京都勝光寺中興開山日宗 上人(神社明細帳には「身延山勝光寺開基日宗」とある)来島以後、二百年余の間両部混在の祭祀が行われた。明 治四年(一八七一)韮山県庁より国学者萩原正平巡視の節、神仏混淆を廃すも、利島の神社は両部神道 の系譜を引き祭事・祭式の仏式は残った。しかし、明治二十六年(一八九三)神主石田助左衛門は神道 祭祀修得を目的に新島の十三社神社宮司前田真一郎氏に師事、六カ月の研鑽の後、前田氏を伴い帰島し神 祭式を復活普及させた。
 島内の数多くの神社の中で、当神社は最も規模も大きく整った神社でその中心をなし、鎮守・氏神とし て今日まで村民から明神様と呼ばれ崇敬され親しまれている。

−境内案内板−


利島は宮塚山を中心とした円錐形の島。
島の北部に集落があり、宮塚山の周囲はハイキングコースになっている。
島の南には、南ケ山園地があり、当社の旧社地である阿豆佐和氣本宮がある。

利島では、宮塚山に登る際、南の阿豆佐和氣本宮(通称一番様)に参拝し
その東にある大山小山神社(通称二番様)に参拝して、南側から登る。
参考からは東側に下り、下上神社(通称三番様)に参拝して登山を終了するらしい。

というわけで、一番様・二番様・三番様廻りのため、
ハイキングコースを、西側から歩く。
舗装された道で歩きやすいのだが、スクーターならあっという間に着いてしまうだろう。
環境を考えて電動バイクなどを貸し出せば、良い商売になる、などと考えていると
南ケ山園地に到着。
そこで道が二手に別れており、南側の道沿いに阿豆佐和氣本宮が鎮座しているので
そちらの道を進む。

しばらく歩くと、道の側に鳥居が立ち、
丸石で積み上げた階段の上に、石祠を祀った阿豆佐和氣本宮に到着。

案内を読むと、祠の北100mの位置に祭神の陵墓があり
阿豆佐和氣命神社旧跡があるらしい。
先ほどの分かれ道から北側の道を歩くとあるようだが見ていない。

『式内社調査報告』では、陵墓というより宮塚山を対象とした祭祀遺跡も様らしい。
神社の原始形態だろう。
立てた自然石と、その前にオッテグラ(竹二本に簡単な紙垂をつけたもの)を立てて祀るらしい。


境内

鳥居と参道

参道と祠

阿豆佐和氣本宮

阿豆佐和氣本宮

阿豆佐和氣命本宮 あずさわけのみことほんぐう
御祭神 阿豆佐和氣命
由来沿革
 創立年代及び由来沿革不詳。本神社は、島民から一番神様と称され親しまれ ている。御祭神阿豆佐和氣命は、伊豆諸島造立神事代主神の王子。
 本神社は、平安時代の斎衛元年(八五四)に正五位下叙位され、又康保四 年(九六四)施行の延喜式神明帳に記載された式内小社阿豆佐和氣命神社である。
 口碑によると、六百年程前この地が氏子の参拝に不便と言う理由から現在の 利島村一番地の阿豆佐和氣命神社(明神様)に遷座され、本神社は阿豆佐和氣命 本宮となった。祠より約百メートル北に、阿豆佐和氣命の陵墓と伝わる阿豆佐 和氣命神社旧跡がある。太古には、陵墓を神社として祀る時代があり、後にこ の地に神社を遷祀したとつたえられている。
 本宮境域(六千六百平方メートル)は「古代の神社地の選定状況を知る上で、貴 重な史跡であると共に、境域のシイ、タブの原生林は数少ない照葉樹林の典型 を残すもので、島民の信仰の歴史を知るためにも学術上貴重である」と言う理 由で、昭和六十二年(一九八七)に東京都文化財に指定された。

−境内案内板−

阿豆佐和氣命本宮(一番様)から東へ進むと大山小山神社(二番様)がある。
が、参道入口は北側の道にあるので、阿豆佐和氣命本宮から東へ進み
北側の道へ回り込む。

しばらく歩くと、道の側に参道入口がある。
参道入口は二箇所あり、「上級者コース」「初級者コース」とあるが
これは坂道(階段)があるかどうかの違い(だと思う)。
僕は迷わず「初級者コース」を歩いたが、距離は100mも無い。

境内は、阿豆佐和氣命本宮と同じ形式。
鳥居が立ち、
丸石で積み上げた階段の上に、石祠がある。
大山小山神社は、その名の通り「山の神」。


境内

鳥居と参道

参道を祠

大山小山神社

大山小山神社

大山小山神社 おおやまこやまじんじゃ
御祭神 大山祇命
例祭 御崎祭 四月一七日
 現在は阿豆佐和氣命神社で行う。
由来沿革
 創立年代及び由来沿革不詳。本神社は、島民から二番神様の呼び名で親しまれ、 御祭神大山祇命は、名の通り「山」の神様である。「サンジン様」「ミサキ様」と も呼ばれ、「大山神小山神」と記された棟札も残されている。利島では生産・薪炭 ・木材など生活の全てが山に委ねられ、船で海に出ると、海上にある宮塚の山容が 頼りである。山の神の現す多様な力に対する畏怖心が、様々な名称を生み出した。
 神社境域(三千三百平方メートル)は「島嶼における歴史的信仰形態を知る上で重要 であり、境域のシイを主とする原生林は数少ない照葉樹林の典型を現在に残し、学 術上貴重な史跡である」と言う理由で、昭和六十二年(一九八七)東京都文化財に 指定された。

−境内案内板−

大山小山神社(二番様)から西へ進むと、また道が二手に分かれている。
右に進むと、利島の東側へ進み、左手に進むと先ほどの分かれ道に戻る。

ここで、左手に進んでいれば、阿豆佐和氣命の陵墓があったのだが、
「とにかく一周するぞ」と決めていたので、
迷わずに右手(東側)へ進んでしまった。

少し歩くと宮塚山登山口があるが、通過してさらに進み、
北上して、しばらく歩くと、もう一つの宮塚山登山口。

登山客は、先の登山口から上って、この道に下りてくるのだろう。
さらに北上すると、道がウネウネと曲がっている場所に
下上神社(三番様)がある。

下上と書いて「おりのぼり」と読む。
僕は登山の神様だと思っていたが、当島主祭神の阿豆佐和氣命の后神。
元は、現社地の西250mにある御穴と呼ばれる火口部に祀られていたらしく
火山の神であり、造山の神。
ということは利島を産んだ神ということだろうか。


境内

鳥居と参道

参道

下上神社

下上神社

下上神社 おりのぼりじんじゃ
御祭神 下上命(下上御方)
由来沿革
 創立年代及び由来沿革不詳。本神社は、島民から三番神様の呼び名で親しま れ、御祭神は阿豆佐和氣命の后神である。
 参詣者は一番神社(阿豆佐和氣命本宮)二番神社(大山小山神社)を巡拝後、最 後に当神社を参拝するのが習わしとなっている。
 祠の約二百五十メートル西にある御穴と呼ばれる噴火口跡に下上命の陵墓と 伝わる下上命神社旧跡があり、太古は下上神社として祀られていた。島誕生の 根源としての火口を祀る、自然崇拝の祭祀形態を残している。
 神社境域(三千三百平方メートル)は「島嶼における歴史的信仰形態を知る上で 重要であり、境域のシイを主とする原生林は数少ない照葉樹林の典型(山陰の樹 叢)を現在に残し、学術上貴重な史跡である」と言う理由で、昭和六十二年(一 九八七)東京都文化財に指定された。

−境内案内板−

一番様・二番様・三番様と廻って見ると
それぞれの境内の形式は皆同じであるのだが
その雰囲気は全く違うことに気付く。
多分、境内入口のイメージと祀られている祭神のイメージが、
影響しているのだろう。

一番様(阿豆佐和氣命本宮)は、道に対して大きく開かれた境内。
存在感を誇示しているようにも見え、さすがに利島の主祭神。

二番様(大山小山神社)は舗装道路から、小道の山道を歩く。
境内周囲には、雑然とした木々が茂り、
自然の中にあり、山神を祀るに相応しい。

三番様(下上神社)境内も舗装路から少し入るが
円形の広場のような境内の奥に、鳥居・参道がある。
その広場が、参拝者を包み込むような雰囲気があり、
女神の優しさを感じる。


利島北部の集落には、幾つかの神社がある。
下上神社から港に戻る道で目に付いた神社を載せておく。

まず、集落から宮塚山を目指すコースの起点にある堂山神社。
境内は鎌倉時代初期から室町時代末期の祭祀遺跡らしい。


堂山神社

堂山神社

堂山神社 どうのやまじんじゃ
神明社  御祭神天照皇太神
神宮社  御祭神不詳
+熊野本宮大社御祭神須佐之男命(別名櫛御氣之命
熊野三社+熊野速玉大社御祭神伊邪那伎命
+熊野那智大社御祭神伊邪那美命
第六天社  御祭神第六天神
祭礼例祭 一月七日
由来沿革
 創立は明治初年代と伝わる。それまで、神宮社を前田栄右衛門、神明社を前田嘉衛 門、熊野三社を梅田三郎右衛門、第六天社を梅田太郎衛門がそれぞれ講元として各私 邸に奉祀していたが、この地に四社を総合し新規に合祀神社として創建された。これ ら四社の創建年代及び明治時代前の由来沿革は不詳である。
 元、この地には由緒年代不明であるが神宮寺があったと伝わる。又、この地に観音 堂や薬師堂があったことが、「ドウノヤマ」と呼称される由来となった。

−境内案内板−

集落内にある天満宮と八幡神社。
八幡神社境内は、堂山神社と同様、
鎌倉時代初期から室町時代末期の祭祀遺跡らしい。


八幡神社

八幡神社

天満宮

天満宮

八幡神社 はちまんじんじゃ
御祭神 応神天皇
配祀神 仲哀天皇
祭礼 例祭 一月一日 流鏑馬神事 一月一日
   年の日祭 一月二日以降の初寅日(当社の干支は寅)
由来沿革
 創建年代及び由来沿革不詳であるが、天正十二年(一五八四)の八幡神社最古の棟札が阿豆佐和 氣命神社社務所に保存されている。当神社にはかって、村の男が参加する八幡講があり、講元は世 襲で梅田太郎左衛門家であった。

−境内案内板−



天満神社 てんまんじんじゃ
御祭神 菅原道真
由来沿革
 創立年代及び由来沿革不詳。祭神菅原道真は、 学問の神様で天神様とも称される。
 利島では、男子が誕生すると勤勉な子供への 成長を祈願し、初正月に天神様を神棚を祀り、 就学した男子は、毎年書き初めで幟を作り奉納 する風習があった。

−境内案内板−

集落から港へ下る坂道の途中。
海を見下ろす場所、プールの隣にある浜宮神社。


浜宮神社

浜宮神社 はまのみやじんじゃ
祭神大綿津見神
事代主尊
配祀神住吉大神
風大神
由来沿革
 創立年代及び由来沿革不詳。御祭神の大綿津見命は、大海原を支配する海の神、 事代主尊は伊豆諸島の造立神である。配祀神の住吉大神は後悔安全を司どる海運 の神であり、お祓いや神々の道行も司る。神々が出雲へ旅立つ十月一日より早く 出立すると言われる。風大神は風の威力を支配する神。航海の安全を祈願するた めに四柱の神々が祀られる。
 桟橋ができる昭和四十年代後半までは、前浜が利島の表玄関であった。玉石の 上に敷いたスラと呼ぶ丸太の上に乗せたはしけを。人力で上げ下ろしをしていた。 航海のみならず、はしけ作業にも大変な危険を伴った。
 島を後に旅に出るということは、今生の別れを意味する程の重大事であった。 いざ家の者が旅立つ時、その家族は柄杓を模したカヤを結んで作った「潮花」と 称する物を二本持って見送り、はしけが出たあとの潮にこれをつけ、一本はこの 神社に奉納し一本は家の神棚に祀り旅の無事を祈る風習が続いていたが、時代の 変遷とともに交通環境も改善され、今ではこの風習も全くみられなくなっている。

−境内案内板−



【 阿豆佐和氣命神社 阿豆佐和気命神社 (利島)(印刷用ページ) 】

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