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大國魂神社
おおくにたまじんじゃ
福島県いわき市平菅波字宮前54
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福島県いわき市にある。
常磐線・いわき駅の東5Kmの平菅波に鎮座。
夏井川の南、6号線常磐バイパスから西へ進むと、
水守神社社域の丘が目の前に見えてくる。
その社前で南下すると、左手田圃の中に円錐形の古墳。
国造建許呂命の墳墓と伝えられる国指定史跡の甲塚古墳だが
発掘調査されてないので正確なことはわかっていないらしい。
甲塚古墳を通過したあたり、道がカーブしている場所に境内がある
境内入口は南向き。
車道から少し南に参道を示す大鳥居が立っている。
境内入口の石橋を渡ると、右手に御神木の大杉。
鳥居の左右に社号標が立っており、左に「郷社大國魂神社」、
右に「延喜式内縣社大國魂神社」と刻まれれている。
参道は木々が茂って暗いが階段を上ると社殿のある明るい境内。
拝殿・本殿は銅板葺きの入母屋造。
拝殿前方に向拝が長く突き出た構造で、龍の彫刻が美しい。
参拝は東日本大震災から3カ月近く経過した6月始めだが、
特に震災の影響は残っていなかった。
境内右手に神楽殿があり、左手奥に宝物殿。
宝物殿への階段脇の草むらで
ガソゴソと何かが動いている気配にビビったが
草の中から数羽のニワトリが出てきた。
通称は、菅波様、菅波の明神様、大黒様。
創祀年代は不詳。
桓武天皇延暦年間、坂上田村麻呂が東夷を討つため当地を通過。
一つの荒れた古祠を発見し、土地の者に聞いたところ
大國魂神社であると知り、大いに喜んで戦勝を祈願。
後に大社に改造して再興したとか
大同二年の再建との伝承もあるらしい。
式内社・大國魂神社に比定され
岩城(磐城)の国魂を祀ると考えられる古社。
当社の南東2Kmにある根岸遺跡に石城国府があったとされ
当社の東そばに国造墳墓がある。
拝殿前の賽銭箱に桐紋が付いていたが、
当社の神紋かどうかは未確認。
本殿の縁の部分に小祠が二つ並んでいたが詳細は未確認。
『福島県神社名鑑』には、境内社として
雷神社、伊勢両宮神社、稲荷神社の名が載っており
以前は、疱瘡神社もあったが今は無し、とある。
参道鳥居 | 境内入口 |
鳥居 | 落雷した御神木大杉 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
社殿 |
宝物殿 | 神楽殿 |
本殿縁の境内社 | 境内のニワトリ |
すぐそばにある甲塚古墳 |
今を去ること、およそ千三百年前、養老三(七一八)年に石城国がつくられました。石城国府は、大國魂神社の東南方二キロメートルに在る根岸遺跡に置かれていたと考えられています。 朝廷は石城国のまほろば(聖なる地、真秀羅場、枢要なる霊地)の森に、大國魂神をお祭りしました。当時の日本六十余の国ごとに、この神様をまつることによって、国の富勢と安泰を祈ったのです。 大國魂神は合わせて、七つの神名をもっています。大己貴命、大國主命、八千矛神、葦原色許男神、大物主神、顕國魂神とも呼ばれています。 このような例は、八百万といわれる神々の中にはほかにありません。それほど大國魂神は神威極大であり、國つ神を統べる神として崇められてきました。 天照大御神は天つ神を統べる神様でありますが、天神地祇と称されるように、天つ神と國つ神のおかげによって、全ての生命が育まれているのです。 大國魂神社の御祭神は御三柱おまつりされていますが、大國主命(大己貴命)を主神とし、事代主命と少彦名命を副神としております。 事代主命は大國主命の御子神であり、幼い頃は歩行や言葉が不自由で、寂しい経験をしたと伝えられています。そのために、野の小鳥と遊び、浜に出ては釣りを楽しみにしていたといいます。 天照大御神が国譲りを迫った時、事代主命は従順に従います。その弟の建御名方神は激しく抵抗しましたが、ついに敗れ去り信濃国の諏訪湖のほとりに大社を建ててこもりました。 少彦名命は、大國魂神の分神霊であり指の間からもれてしまうほどの極小の姿をしていると伝えられます。 このような古事記(ふることのふみ)の神話はやがてマリモのようにふくれてゆき、唐・韓・天竺(中国・朝鮮・印度)などから渡来した神々とも習合して、大國主神は大黒様、事代主神は恵比寿様、少彦名神は医薬(くすし)酒醸(さけ)神、除災(はらえ)神であると信じられるようになりました。 元禄の頃(約三百年前)からは、縁結び、商売繁昌、家内安全の守護神としてどの家でも恵比寿・大黒の二福神をおまつりするようになりました。 ◎歴史と伝承 大國魂神社の周辺は古代文化の栄えたまほろばの地であり、中田横穴古墳(沼ノ内・国史跡)、八幡横穴(平高久・市史跡)、天冠男子像埴輪(平下高久出土・県重文)、夏井廃寺跡(平下大越・県史跡)、根岸遺跡(平下大越・石城郡衙跡に比定)、砂畑遺跡(平菅波)、小茶園遺跡(平山崎)、そして当神社飛地境内の甲塚古墳(平荒田目・国史跡)などが知られております。 甲塚は石城国造の建許呂命の墳丘であるといわれます。 石城国はまもなく陸奥国に編入され、この地域は岩城郡に属することになりました。 大國魂神社の近くに『「和名抄』が伝える岩城郡岩城郷や和(やまと)郷がありました。 醍醐天皇の御世に撰修された延喜式神名帳には、磐城郡七座の首座として記せられております(西暦九二七年)。 鎌倉時代になると、地頭岩城氏の一族、國魂氏(國魂村地頭)が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主・山名氏が、平窪・矢野目・國魂三村を領有し「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。 室町時代には、領主・岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には磐城平藩主による修復が重ねられました。 当時、神主・下社家・巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。 幕末の元治二(一八六五)年には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治十二(一八七九)年、郷社に加列し、大正十二(一九二三)年には県社に加列しました。 おもな社宝として、次のものが伝えられております。 國魂文書 一巻(県重文) 國魂石室記 一軸 石室出土品(鬼角、管玉) 神輿 二基(平藩主内藤家、安藤家寄進) 勅宣正一位大國魂大明神 一幅 及び関係文書 内藤政栄公(俳号露沾)献詠 和歌・俳諧 神社明細帳 一冊(宝永六年) 豊間浜関係文書 二通(天明五年) 棟札・木簡 二十八枚 ◎大和舞と稚児舞 大和舞は出雲流神楽であり、太々神楽ともいわれます。内藤露沾公の献詠に「引幕や天の岩戸の桂花」の一句があり、すでに1730年代以前には行われていたことがわかります。現在は大和舞伝承会によって継承され、正月の初音祭(成人の日)と五月の例祭(五月三日)に、神楽殿において奉納されます。第一回国民文化祭(昭和六十一年・東京)にも参加し、いわき市の無形文化財に指定されております。 稚児舞は氏子の子女により、大和舞と同じ日に奉納されます。 ◎豊間千道祭 天明五年(1785)のこと、豊間村に流行病あり、神輿渡御のうえ、鎮疫祭がおこなわれた結果、病魔退散し翌年正月より千道祭が開始されました。 豊間浜にそそぐ霊通川口に、むかし、大黒様の御姿石が出現したので、大國魂神社に奉献したということもあって、神社東南方10キロメートル、塩屋崎灯台のふもとの美しい浜への神輿渡御が行われております。 特に平成九年からは豊間町内の有志百余名によって「大國魂神社神輿渡御保存会・海友会」が創立されました。その熱誠によって、昭和四十年代以降、四年に一度とせざるを得なかった渡御祭が、元のように毎年執行されることになりました。 −『福島県神社名鑑』− 当社は、いわき市平菅波に鎮座しており、大己貴命、事代主命、少彦名命をお祀りしている。 養老2(718)年、朝廷は石城国を置きました。現在の浜通り地方全体が一国となりました。石城国の中心地域は、いわき市の豊間、高久、夏井であったのです。この地域はそれ以前から文化が栄え、中田横穴、八幡横穴、天冠男子像埴輪、夏井廃寺塔跡、根岸遺跡、そして、当社飛地境内の甲塚古墳などが知られています。古代の人々は、美わしい国土に宿る霊力を国魂神として讃え、お祭りしていました。石城国造建許呂命(いわきのくにのみやつこたけころおのみこと)の一族によって、奉斎されたのが大國魂神社であります。 甲塚はこの国造の墳丘であるといわれます。石城国はやがて陸奥国に編入され、この地域は岩城郡に属することになりました。醍醐天皇の御代に撰修された延喜式神名帳には、岩城郡七座として、大國魂、二俣、温泉、佐麻久嶺、住吉、鹿嶋、子鍬倉の各神社名を記しております(927年)。岩城郡の郡司が奉斎する神社として、大國魂神社は、崇敬されていたのです。 鎌倉時代になると、地頭岩城氏の一族国魂氏(国魂村地頭)が祭祀権を掌握し、さらに南北朝時代には、神主山名氏が、平窪、矢野目、国魂三村を領有し、「大國魂大明神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。室町時代には、領主岩城氏によって社殿の大造営が行われ、江戸時代には平藩主による修復が重ねられました。当時、神主、下社家、巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。幕末の元治2(1865)年には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治12(1879)年、郷社に加列し、大正12(1923)年に県社に加列されました。 主な社宝として、次のものが伝えられております。 国魂文書一巻(県指定重要文化財) 国魂石室記一軸 石室出土品鬼角、管玉 神輿二基(平藩主内藤家、安藤家寄進) 勅宣正一位大國魂大明神一幅、関係文書 内藤政栄公(俳号露沾)献詠和歌、俳諧 神社明細帳一冊(宝暦6年) 豊間浜関係文書二通(天明5年) 棟札、木簡二十八枚 −『平成祭データ』− |