[HOME] > [神社記憶] > [中国地方] > |
|
燒火神社
たくひじんじゃ
島根県隠岐郡西ノ島町美田焼火山
|
|||
旧県社 |
隠岐島前、西ノ島の中央部。
焼火山(452m)にある。
林道があるので、駐車場から10分歩いて到着。
本殿が半分、磐にめり込んでいる。なかなか、すごい。
社殿は、昔の写真では茶色だったが。塗りかえられたようで朱。
通称、「隠岐の権現」。
創立は、一条天皇の御代。
神社の鎮まる山は焼火山というが、昔は大山と称し
北麓に鎮座の大山神社の神奈備であった。
隠岐神社に祀られる後鳥羽天皇が、隠岐に流された時、
社頭に火光見え、それによって無事、
島へ渡ることができたということから焼火と称するようになったという。
平安末期より、修験道の隆盛により、
山頂岩穴に社を設け、燒火権現・雲上寺として祀られていたが
明治の神仏分離によって、燒火神社と改められた。
10分ほどの参道は暗く・細く・急だ。
境内はあまり広くなく、山肌にしがみつくように社殿がある。
拝殿の入口も横にあり、本殿は一部、磐の中。
夜を想像すると、あまり一人では来たくない。
晴れてて良かった。
参道や境内に境内社が数社あるが詳細は調べていない。
『神国島根』には、山神社、弁天社、船玉社、雲上宮、東照宮、
五郎王子社、金重郎社、才ノ神社の名が記されている。
駐車場の案内 | 参道の鳥居 |
境内 |
社殿 | 扁額 |
社殿 |
本殿横の境内社 | 本殿 |
境内社 | 境内社 | 境内社 |
焼火神社(隠岐の権現さん)旧県社 知夫郡隠岐西の島町焼火山 安来駅より隠岐丸にて海上四時間 祭神 大日孁貴尊(焼火の神) 例祭 七月二三日〜二四日 本殿 権現造 三坪 境内 四四七六坪 末社 七社 宝物 ともど舟一隻(民俗資料)、後鳥羽院献納薬師仏、後醍醐帝御歌切一軸 氏子 三千戸 神事と芸能 春詣祭(旧正月五日より約一ヶ月)、隠岐神楽(七月二三日夜) 由緒沿革 一条天皇の御代創建と伝え、焚火 社とも称せらる。後鳥羽天皇御遷幸に際し、 社頭に火光見え、それに依って御渡島無事な るを得たので、以来焼火社と称せしめられた という。古来海上鎮護の神として海運業者の 崇敬殊に厚くその名遠近に聞こゆ。 −『神社名鑑』− 當社(大山神社)の由緒は、前記燒火山上に鎭まります燒火 神社の由緒と密接に關連する。いふところの燒火神社は、 もともと燒火権現と稱し、その境域の全體は雲上寺と號し て、明治の神佛分離まで、専ら修験系の所謂社僧がこれを 奉斎してゐた。「燒火権現縁起」によるとその発端は、「昔 一條院之御宇某年、海中有光數夜、一夕飛而入此山、村人 尾迹蹐跼而登、忽見一岩之獨立、其形如薩陀」となってゐ るが、けだしこれはもともと此の山が、大山の神の鎭 まります聖山であったからに外なるまい。前記の縁起にも 「斯山往昔稱大山也」とある如く、もともと此處は燒火山 では無く大山であつて、恐らく古くは、この山の全體が山の 神のいはば神名備であつたと思われる。(略)近世まで降ると、も早や大山の神とは燒火明神のことな りといふ認識まで生ずるやうになる。(略) かくて明治維新に至るが、維新に至ると神佛分離 令が出た事によつて、燒火権現は大山明神と離れ、かつ燒 火神社として再生し、大山明神は式に據つた大山神社の昔 に返り、この地區の氏神として明治五年村社に列せられた。 −『式内社調査報告』大山神社の項− |
【 焼火神社 燒火神社(印刷用ページ) 】