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那波加神社
なはかじんじゃ
滋賀県大津市苗鹿1−8−1

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大津市苗鹿にある。
雄琴駅と坂本駅の中間あたり、161号線から少し西へ入った所。
狭い道路の側に、鎮座している。
境内は、あまり広くは無いが、静かで落ち着いた印象。
拝殿は、このあたり、日吉周囲に特有の、舞殿のような構造。
玉垣の中央に本殿があり、左右に2・3の境内社が並んでいる。
鳥居扁額の青が、斬新というか、古風というか、良い感じ。
創立年代は不詳。
一説には、天智天皇7年(668)とも、平城天皇大同2年(807)とも。
当社の近くにある雄琴神社(今雄宿禰)とは古代から関連があったらしく。
当社は小槻氏の祖神、雄琴神社は今雄氏の祖神を祀り、
ともに同族と考えられている。
琵琶湖西岸の古社は、
その土地を支配していた古代氏族の祖神を祀ったものであることが多い。
天台の考える三十番神の一つとして、
全国的な神々の中にある、苗鹿の神が、当社のこと。
この地方にとって、重要な神だということがわかる。
平安時代、比叡山横川の中堂が焼けた時、
当社・苗鹿の神に祈念し、当社の森の巨木を再建にあてた。
祭神は現在、天太玉命とされているが、以前は、宇賀御玉命とも考えられていた。
苗鹿の苗から、稲の連想で稲荷の一種とされていたようだ。
神紋はよく確認できなかったが、稲紋のように見えた。
宇賀御玉命ならば、これで正しいと思うが、自信は無い。
後に『滋賀県神社誌』を入手し、確認すると、
当社の神紋は「苗を背負鹿」、まさしく苗鹿なのだそうだ。
残念ながら、図案を確認していないので掲載はできない。
また、三つ巴も神紋らしいので、三つ巴紋のみを掲載しておく。
境内 |
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拝殿 ![]() | 拝殿横の境内社か ![]() |
垣内に社殿 |
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本殿左の境内社 ![]() | 本殿 ![]() | 本殿右の境内社 ![]() |
道を挟んで向かい側に、那波加荒魂神社が鎮座している。
当社祭神の荒魂を祀る神社。
荒魂社は、現在、末社となっているが、
当社を下宮、荒魂社を上宮と考えられている。
荒魂社(上宮)には拝殿はなく、玉垣内に本殿と境内社があるのは同じ。
荒魂社社頭 |
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荒魂社 ![]() | 荒魂社 ![]() |
本殿左の境内社 ![]() | 本殿 ![]() | 本殿右の境内社 ![]() |
縣社 那波加神社 祭神 字賀御玉命 相殿 今雄宿禰 祭神は一説に天太玉命なりと云ふ(神祇政宗、神社覈録、輿地誌略、特選神名牒)之れ蓋し卜部兼煕の三十番神苗鹿の註に、天太玉命老 翁に化し、鹿稲を負うて之を導く、故に名づくる由いへるに據れる者ならん、また侍選神名牒にも、當祭神宇 賀御玉命とあるを非として曰く「此社の祭神を宇賀御玉命といへるは、那渡加を苗鹿とも書くを以て、稲苗 に附會せしものなれぱ信じがたし」といへり、果して孰れか是ならん、暫く記して後考を俟つ、創祀年代詳な らすと難も、天智天皇七年に社を營みし事神紙正宗に見えたれぱ、其古社なる事知るべし、博へ云ふ、比叡山 横山の佛像はもと當社の神木を以て之を造れり、然るに六條天皇仁安四年二月五日焼亡す、依つて舊例に準 じて、その再建用材を當社の神林に選ぷべしとなす、然れども神慮計りがたきを以て、同十六日横川の學徳 五十人當社に詣りて、百座仁王講を修せし事ありと(山門堂社記)、下野國誌に「後花園天皇寛正年中壬生官務 家の庶流彦五郎胤業下野國に下向の時、雄琴明神を壬生城に勧請す」とあるは、帥ち當社より分祀せるもの なりと云ふ、此地往古壬生氏の舊領にして、土俗此社は壬生官務の氏神なりといへれば、同族の崇敬は他に 異なりしなるぺし、兎に角に早くより世に聞えたる社なり、社格は延喜の制小社たりしが、明治の初年村社 に列し、同二十八年縣社に昇格せり。 社殿は本殿,拝殿、其他倉庫、獻燈所、井戸屋形等の建物を具ヘ、地は坂本村の北に隣り、西に横川嶺を擁し、 東方琵琶潮を控へて眺矚絶佳なり、されぱ古より名所として知られ、金葉集に「松風の雄琴の里に通ふにぞ 治まれる世の聲は聞ゆる」と詠めるは、實に此地なりとす、境内は三百六十三坪(官有地第一種)あり。 −『明治神社誌料』− |
