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雨宮坐日吉神社
あめのみやにますひよしじんじゃ
長野県千曲市雨宮1
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長野県千曲市にある。
しなの鉄道・屋代高校前駅の東2Kmほどの雨宮に鎮座。
境内は403号線に面して南向き。
郵便局の隣りに、朱の両部鳥居が立っている。
鳥居の右手には「雨宮坐日吉神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり参道を進むと石鳥居。
石鳥居の奥に、「舊御公札場趾」と刻まれた石碑があり
さらに奥に、境内入口の門がある。
入口を入ると広い境内。
参道左手に宝庫や遊具があり、右手に神馬庫。
境内の奥に当社の社殿がある。
参道入口の朱の鳥居から社殿までは数十mほどあるだろうか。
大きな拝殿は、入母屋造。
拝殿の後方に、垣に囲まれて流造の本殿がある。
拝殿の賽銭箱に、手裏剣のような神紋。
珍しい紋だなぁ、と思いながら参拝したが
この形は、鞠挟み紋というらしい。
蹴鞠を挟んでおく用具らしいのだが、
当社の神紋が鞠挟み紋なのか、手裏剣なのかは確認していない。
創祀年代は不詳。
往古より大己貴命と少彦名命を祀っていたという。
社伝によると、三十四代舒明天皇八年、
大雨暴風が三日三晩続き、千曲川があふれて洪水となって
人々は山に逃れて死を免れていた。
そこに、西北の方から光明を放ちながら激流を渡って来るものがある。
その光が天地に耀き、風雨はたちまちに止んだと言う。
人々は喜び、光明のもとを探すと大小二個の石があった。
その夜、七歳の少女に神懸り、
「吾は大己貴命と少彦名命である」と言い
その石を祀るべしと告げたことから、
人々は社殿を建造して祀ったという。
白鳳年間、当地に地震が起こり
山々が崩落し鳴動が半年も続き、人々は恐怖していた。
その時、ある巫祝が、これは山神の怒りに触れた祟りである。
山神を祀って鎮めるべしと告げた。
そこで、白鳳十一年(671)、近江坂本の大山咋命が合祀され、
古来、雨宮村の産土神として崇敬された古社。
当初は、天ノ宮と称していたが、
大山咋命を合祀した後は、山王権現と称され
通称は、お山王さんというらしい。
安永年中に日吉山王宮、明治元年に雨宮坐日吉神社と改称。
貞観四年三月従五位下を叙され、
当郡の一宮、あるいは総社として崇敬され
弘治三年武田信玄は社領五石を納めたという。
明治六年四月郷社に列し、明治三十三年三月県社に昇格した。
当社の御神事は、国の重要無形民俗文化財。
三年に一度の四月二十九日に行われるもの。
その中で、斎場橋の上から四頭の(越後獅子みたいな)獅子が
逆さ吊りになって流れの中に頭を突っ込んで
水しぶきをあげながら踊る「橋がかり」が行われ
奇祭と呼ばれているらしい。
境内左手に、長屋状態の境内社があり、
稲荷神社、諏訪神社、江ノ島神社、皇大神社、
姫宮神社、飯綱神社、白山神社や庚申猿石像がある。
また、天満宮の石碑や、
幾つかの境内社が散在しているが詳細はわからない。
『平成祭データ』には、三峯神社、招魂社、秋葉神社の
名前が載っている。
社頭 |
鳥居 | 鳥居 |
境内入口 | 宝庫 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
境内社 | 境内社 |
境内社 | 境内社 |
神馬庫 | 天満宮 |
当社の北、雨宮駅を越えて川を渡ったところに、
有名な「雨宮渡」がある。
武田信玄と上杉謙信の第四次川中島の戦いにおいて、
永禄四年(1561)、妻女山に布陣していた上杉謙信が、
武田軍の炊飯の煙を見て啄木鳥の戦法を察知し、
夜陰に乗じて、粛々を千曲川の雨宮の渡しを渡り、
武田軍の本陣を突いたという。
現在、千曲川の流れが変わってしまったが
当時の渡しの位置に、
頼山陽が詠んだ漢詩「川中島」を刻んだ石碑が立っている。
鞭聲 肅々夜過河曉看 千兵擁大牙遺恨十年磨一 劍流星光底逸長蛇 山陽外史 |
鞭聲 肅々夜河を過る
曉に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一劍を磨き
流星光底に長蛇を逸す
頼山陽直筆「川中島」石碑 |