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生島足島神社
いくしまたるしまじんじゃ
長野県上田市下之郷
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式内社 信濃國小縣郡 生嶋足嶋神社二座 名神大 |
長野県上田市にある。
JR上田駅で上田交通別所線に乗換え、
下之郷駅を降りてすぐの場所にある。
社前を南北に走る道路があり、東向きに赤い鳥居が立つ。
その鳥居から、道路を越えて北東方向に小道が真直ぐに延び、
リサーチパーク方面を500m行くと、大鳥居がある。
平成二年に再建されたものだが、その位置は昔と変わらない。
ということは、昔から、この大鳥居から真直ぐに参道があった。
北東(鬼門)方向から進入することになる。
また、社殿・本殿は北向きに鎮座している。
面白い構造で、なにか意味があるのかもしれない。
東北地方からの鬼(朝敵)の進入を呪術的に
食い止める機能を果たしているのか。
日本地図で見ると、当地は京都の鬼門延長線上にある。
ただし、その意味では諏訪大社など、信濃の神社は概ねその位置ではあるが。
現在、その位置から日本中央と称し、
日本国総鎮守としているが、平安以前の日本を考えると、
ずれている気もしないではないが、上記の配置を考えると、
それも「あり」か。
創祀年代は不詳。
式内社・生嶋足嶋神社二座に比定される古社。
一説には、崇神天皇の御宇、神八井耳命の孫健五百建命が
科野国造に定められた頃に社殿が創建されたとも。
祭神は、生島大神・足島大神の二座。
生島大神は生みの神。足島大神は満たす神。
御名方命が当地へ(出雲から)下って来た時、
二座の祭神が粥を奉仕したというが、
とすると、この地方の地方神ということになる。
が、しかし、宮中にも祀られている生嶋巫祭神二座の生嶋神・足嶋神であり、
国家天皇にとっては重要な神。不思議な神なのだ。
池の中に鎮座している本殿には床板がなく、
大地そのものを御霊代としている珍しい神社。
祭神・境内配置・構造と、なかなか変わった神社だ。
周囲を山々に囲まれた土地。青い空に赤い大鳥居が鮮やかで、
リサーチパークへの目印となっている。
大鳥居 |
境内東西に鳥居があり、池の中に社殿が鎮座している状態。
社殿へは行くには橋を渡るが、社殿正面の神橋は、一般は通れない。
東入口鳥居 | 西の鳥居 |
池の中に境内 | 社殿前の神橋 |
境内と神橋 |
社殿 |
社殿 | 社殿内 |
境内には長野県宝である歌舞伎舞台の建物があり、
内部は起請文の展示場となっている。
鳩などの侵入のため、扉は閉っているが
自由に開けて入ることができる。
社殿正面には諏訪社(健御名方富命 八坂刀賣命 八重事代主命)があり、
諏訪社の前に神木の欅。
県宝 歌舞伎廻り舞台 | 内部は起請文の展示場 |
神楽殿 | 諏訪社 |
神木の欅 | 諏訪社扁額 | 諏訪社 |
池の中にある本殿には床が無いということだが、
勿論確認は出来なかった。
実際は、これは覆殿で、内部に内殿があるらしい。
十三社 | 本殿 | 御柱 |
社殿前にある子安神社 木花開耶姫命 彦火瓊瓊杵尊 | 本殿後方に八幡宮などの末社 |
不明 | 八幡宮 誉田別尊 玉依比賣命 伊弉册尊 | 秋葉社 軻遇突智神 |
生島足島神社由緒 御祭神 生島大神 足島大神 御由緒 大古より大八州の御霊として祀られ 日本総鎮守と仰がれこの古社で昔建 御名方命が諏訪の地に下降される途すが ら、この地に御留りになり、二柱の大神に 奉仕、米粥を煮て献ぜられたと伝えら れ、その古事は今も御籠祭と云う神事 に伝えられている。 御本殿には床板が無く、土間の大地が 御霊代とされている。 御神徳 生島大神は、万物を生み育て力強い 生命を与え、足島大神は、国中を満ち 足らしめ人々の願いに満足を与えて 下さると昔より伝えられている。 御例祭 九月十九日 寅年・申年には式年御柱大祭が斎行される。 摂社 諏訪社、八幡社、子安社、十三社、荒魂社、秋葉社、山宮社、御旅所社 −境内案内− 日本中央生島足島神社 日本の真中国土の大神 御祭神生島大神足島大神 御神徳この二柱の神は日本の中央に鎮座して、万物を生み育て、国中を満ち足らしめ給う日本国土の守護神である。生島大神は人々に力強い生命を与え、病気平愈、災難除け、安産に、足島大神は人々の願いに満足を与え、五穀豊穣、商売繁盛、受験、縁結び等に霊験あらたかと昔より伝えられている。 御由緒太古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。 御社殿御本殿には床板がなく、その土間の大地が御霊代とされている。神域は老樹が茂り、社殿をめぐる大池に朱塗の神橋がうつる景趣はよく崇高の美を現している。この神域の様式は池心宮園地(いけこころのみやえんち)と称され、出雲式園地の面影をそのまま保存するものである。現在の社殿は昭和16年国費をもって竣工した。 崇敬のあらわれ歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年には神封戸の寄進があり、醍醐天皇の延喜の代には名神大社に列せられた。建治年間には北条国時が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進、戦国時代以後、武田信玄、真田昌幸・信幸等の武将をはじめ、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を再建する等崇敬を表している。ことに天皇が新たに都を定められる時には必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治天皇が都を東京と定められた明治2年宮中にこの二柱の大神を親祭され同22年勅使差遣になり国幣中社に列せられた。 古文書永禄の頃、武田信玄の奉られた願状をはじめ、その家臣の起請文等九十四通は今なお宝物として保存されており重要文化財に指定されている。 −『平成祭データ』− |