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蓼科神社 里宮
たてしなじんじゃ さとみや
長野県北佐久郡立科町大字芦田字高井424  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊


五七の桐

式外社 蓼科神 三代実録
旧郷社

御祭神
高皇産靈神
配祀
大己貴命 木花開耶媛命

長野県の立科町にある。
立科町役場の南2Kmほどの芦田に鎮座。
芦田川に沿って40号線を南に進むと、
道路の右手に境内入口の鳥居が立っている。
『平成祭データ』には、字高井とあるが、他の資料には古町。
芦田川対岸に芦田城跡がある。

数段の階段を上ると、右手に「蓼科神社」、
左手に「立科嶽里宮」と刻まれた社号標が立っている。
当社は、南20Kmほどに聳える蓼科山(2530m)を祀る里宮。
蓼科山山頂には奥社があるらしい。

鳥居をくぐると右手の木の根元に高井稲荷の小祠。
広い草の参道を進むと、左手に巨大な神代杉(高井杉)が立っており
参道脇には水神などの石碑や石祠があって
参道突き当たりの森の入口に狛犬。

社域の森に入ると、参道階段が上に延び、
階段下両脇に、天満宮と愛宕神社が祀られている。
階段の手前に八角形の石が置かれているが、旧本殿跡らしい。

階段を上ると、冠木鳥居があって、やや寂れた印象の境内。
境内奥、階段の上に社殿がある。
拝殿は入母屋造。背後の本殿は流造だが、覆屋の中にある。

境内の左手に赤い橋があり、奥に天照皇大神宮が祀られている。
境内の後方に道路があり、道路の向こうに
「蓼科神祠碑」と刻まれた社号標と古木の焼け残りがある。
道路から境内に入ると、社名のわからない境内社が一つ。
祠の前に割れた石の扁額の下の部分が置かれており「見神社」とある。
もとは「妙見神社」と刻まれていたのだろうか。

当社社号の「蓼科」は、町名にもなっている「たてしな」と読むが、
『明治神社誌料』などには「たでしな」となっている。
また、『日本の神々』には、明治八年「蓼科神社」と改称し、
現在は立科神社と改めたとあるが。

創祀年代は不詳。
社伝によると、蓼科山の奥社は、日本武尊東征の頃から祀られているという。
また、里宮は推古天皇十二年の奉祀と伝えられている。

三代実録に「陽成天皇元慶二年七月十六日
信濃國正六位下蓼科神授従五位下」と記されている国史見在社の式外社。

旧記によると、坂上田村麻呂や余吾将軍平維茂らが社殿を修造したという。

『明治神社誌料』によると、
蓼科山は立科山とも呼ばれ、円錐形の山容から飯盛山とも称し、
山頂の奥社は立科八王子権現といい、里宮は高井明神と呼ばれたらしい。
この高井は、山上の岩窟に清水が湧いていることから名付けられたもの。

戦国時代以降、しだいに衰微していたが
寛永年間、今井治兵衛という者が社殿を再建。
牛鹿八ケ村の総社として、小諸藩の崇敬社となり、
明治六年、郷社に列した。

当社は妊婦の守護神として崇敬され、
当社に参拝すると子孫が繁栄するという。
『高井明神由来記』によると、
昔、神代杉の幹の頂から三日三晩雷光が放たれ、
「立科山には神変怪異があるため婦女の登山は禁ずる。ここで参拝するように」
との神託によって里宮が建てられた。
また、芦田の野方に冠者の家を建てようと、村人総出で木を運んでいた時、
当地で突然重くなって運べなくなり、冠者の家を建てる前に
宮を建てよとの神託があり里宮を再建したとも。

蓼科山山頂の奥社には、
高皇産靈神倉稻魂神水分神保食神木花開耶媛命稚産靈神が祀られているようだが
当社祭神の八柱の御子神を祀っていたという説もある。

拝殿の屋根に、菊紋と桐紋が付けられていた。


社頭

社号標と鳥居

鳥居脇に高井稲荷

参道と大きな神代杉

境内入口

参道

天満宮と参道階段と八角形の石と愛宕神社

参道階段

階段上に冠木鳥居

境内社殿

本殿

社殿

境内

境内左手に橋

天照皇大神宮

社殿

境内奥の境内社

境内後方に石碑と古木


【 蓼科神社 里宮 (立科町)(印刷用ページ) 】

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