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氣多神社
けたじんじゃ
兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 但馬國氣多郡 氣多神社
但馬國総社
旧郷社

御祭神
大己貴命

兵庫県豊岡市(旧日高町)にある。
山陰本線・国府駅の南2Kmほど
江原駅の北東2Kmほどの日高町上郷に鎮座。

円山川の土手を走る482号線に面して境内入口があるが、
482号線からは階段を下るので、
車で境内に入るには、境内東側の狭い道から入る。

482号線を走っている時は、
ちょっとした森があるとしか思えなかったので、
周囲をグルッと回って、ようやく入口を見つけた。

鳥居をくぐり、境内に入る。
と言っても、鳥居は境内の中にあるので
くぐらなくても境内だが。

境内は、思っていたよりも広い。
注連縄の無い注連柱の立っている境内の奥、南側に拝殿があり、
その後方の垣の中に本殿がある。

参拝は、休日の朝。
社叢の森の中にある神社で、
雨が降っており、境内は緑が瑞々しく清涼なのだが
やや暗かった。
拝殿には、まだ参拝客用の明かりが灯っている。
晴れて明るい日なら、この明かりは消えているのだろうか。

創祀年代は不詳。

総社気多大明神とも称される神社で、
但馬国総社として崇敬された古社。

『播磨国風土記』宍禾郡の記載にある、
御方(御形)の郷の地名の由来に以下の記述がある。

天日槍命葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至り
おのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。
天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。
葦原志許乎命の投げた黒葛は、
一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、
そして、最後の一条が御方に落ちたため、
三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

上記のように、気多は葦原志許乎命(大己貴命)の
支配するところとなり、当社は、その大己貴命を祭神としている。

境内の右側には、新しい四末社を祀った社殿がある。
左から、八幡宮・八坂神社・須賀神社・稲荷神社。
境内の左側には、石の祠が二つ。
案内石碑によると、境内には愛宕神社が祀られているらしいので
大きい石祠が愛宕神社だろう。

本殿の右側には、幾つかの岩が転がっている。
中には船形の石もあるが、
ちょっと暗くて写真がピンボケぎみ。
念のためにストロボも使ったが、雰囲気が伝わらない。


境内

鳥居

境内

境内

境内左の境内社

境内右の境内社

拝殿

本殿

本殿

本殿右の岩

本殿右の岩(ストロボ)

気多神社(由緒)
鎮座地 兵庫県城崎郡日高町上郷字金堀二二七
 大古山陰地方は「大国主神」の支配地で、命は但馬や播磨 では「葦原志許乎命」と称されていた。
 新羅国の王子「天日槍」が山陰海岸に渡来し、「葦原志許乎 命」と支配地の争いになったが、和解の結果、志爾嵩山頂から 両社三本ずつの矢を射て支配地を決めることとなった。
 天日槍の放った矢は全て「但馬」に落ち、葦原志許乎命の 放った矢は一本が養父郡に落ち、一本は気多郡に落ちた。
 そこで天日槍は但馬の出石を居住地に定め、葦原志許乎命は 新たに建立された「養父神社」「気多神社」に「大己貴命」 (おおなむちのみこと)の神名で祭祀された。(播磨風土記)
 国司文書によれば気多神社は神武天皇九年(前六五一)に 気立(気多)の丘に創建されたと記されている。
 文化の改新後は国府地区に但馬国府が創立され、気多神社は 「総社」として崇敬を受けた。中世以降は頼光寺に一郡一社の 「惣社大明神」として鎮守し、当時の社殿は、檜皮葺き三社造 りで、本殿は四間四面欄干造り、拝殿、阿弥陀堂。鐘楼、朱塗 り山門等七堂伽藍の整った大社だったが、豊臣秀吉の但馬侵攻 により灰燼に帰した。
 現社殿は延宝五年(一六七七)の再建であり、大正一二年に 大修築を行い現在に到っている。現存する鰐口は応永三二年 (一四二五)の作で町文化財に指定されている。明治三年気多 神社と社名を改め、明治六年郷社に列せられた。
 境内社には、八坂神社、須賀神社、八幡神社、稲荷神社、愛 宕神社等が祭られている。

−境内石碑−



御由緒

創立年月不詳なるも大己貴命葦原志許男命と国占の争ありし時、命の黒葛此地に落ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し中世以降総社気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有したりき明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。

−『平成祭データ』−



【 気多神社 氣多神社 (日高町)(印刷用ページ) 】

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