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愛宕神社
あたごじんじゃ
京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1
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京都府亀岡市にある。
亀岡駅の北3Kmほどの千歳町国分に鎮座。
桂川を超えて25号線を北上し、国分あたりで東へ入ると境内がある。
境内入口は西向き。
数段の階段の上に鳥居があり、
鳥居の脇に「本宮 愛宕神社」と刻まれた社号標が建っている。
さらに階段を上ると砂利の境内。
境内南側に社務所があり、北側に社殿。
社務所の前には「亀岡の名木 大スギ」があり、
境内の中央には「亀岡の名木 イヌマキ」。
拝殿は舞殿のような構造で、その北側に本殿がある。
鎌倉時代建造の本殿は、正確には覆屋の中だが、内部も良く見える。
資料によると一間社流造らしい。
当社の森にはムササビが住んでいるらしいのだが、
参拝時には見かけなかった。
夜行性らしいので夜に参拝すると会えるかもしれないが、
神社なので、一人だと怖いかもしれない。
古来、東に面する白雲山を神籬として奉斎され
継体天皇元年(512)に神殿が創建されたと伝えられている古社。
三代実録に、貞観六年(864)五月十日に、
「授丹波國正六位上愛當護神從五位下」、
貞観十四年(872)十一月二十九日に、
「從五位下阿當護神從五位上」とあり、
元慶三年(879)閏十月二十四日に、
「授丹波国従五位下阿当護神従四位下」とある。
神仏混合の結果、両部に属する神社として愛宕権現とも称されたが、
現在、愛宕権現は当社の西にある養仙寺に祀られている。
式内社・阿多古神社に比定されている神社で、
当社の分霊が、京都鷹ケ峰に祀られ、
その後、和気清麿によって愛宕山山頂の朝日峰へ遷座された。
京都市内からも仰ぎ見ることのできる愛宕山は
京都市民によって火伏せの神として崇敬され、
「お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕さんには月参り」と言われている。
ということで、愛宕山の愛宕神社の方が有名で、
愛宕山愛宕神社を式内社とする説があるらしいが、
『式内社調査報告』によると、当社宮司の西田氏の研究により
山城国愛宕社に出されたものが当社からのものであることが確認されているらしい。
愛宕山の愛宕神社が、当社から分祀されたものであることは確かなようだが、
延喜式の阿多古神社が、当社のことなのか、愛宕山のことなのかは
平安時代、愛宕山が、丹波國桑田郡の山と考えられていたかどうかによるだろう。
古代の地理には詳しくないので、何とも言えないが、
山城国の都の人々から見た場合、目の前に見ることができる愛宕山は
山城国の山なのではないかと思う。
また、京の西にある愛宕山の愛宕権現は、
京の東の比叡山同様、仏教の聖地として認識され、
神社とは考えられなかったのではないだろうか。
当社も火伏せ、火難除けの神として崇敬されており、
三歳、五歳の幼児期に当社に参詣すれば、
一生、火難の災害を免れると言われている。
境内の右手に八幡神社、その脇に高良玉垂社が祀られている。
本殿の右手には、豊受比賣社と火防社。
左手には、少毘古那社、蛭子社、埴山姫社、稚産霊社。
さらに左手に境内社が幾つかあるが、社名は未確認。
『式内社調査報告』には、軻遇突智社、大穴牟知社、稲荷社、
天満宮、龍田社の名が記されている。
神紋に関して、
社殿の屋根などに三つ巴が見られ、
『全国神社名鑑』には「二円内右三つ巴」と記されている。
「二円内」というのは確認できなかったが、多分丸の中に三つ巴があるのだろう。
残念ながら、良く分からないので、三つ巴紋のみを掲載しておく。
社頭 | 鳥居と社号標 |
境内 |
拝殿 | 境内社と本殿 |
本殿 |
本殿 | 本殿 |
高良玉垂社 | 八幡社 |
本殿左の境内社 少毘古那社、蛭子社、埴山姫社 稚産霊社 | 本殿右の境内社 豊受比賣社、火防社 |
境内社(社名未確認) | 境内社(社名未確認) |
亀岡の名木 大スギ | 亀岡の名木 イヌマキ |
亀岡の名木 モミ と 滝? |
愛宕神社(阿多古神社)
国分寺の衰退により僧侶が奉仕したこともあって愛宕(おたぎ)権見と も称された。分霊が京都鷹ケ峰に祀られさらに和気清麿により嵯峨山に 遷されたのを初め、全国に千余の分社があり、火を司り、火伏せ災難除け の神として家庭に祀られ、七・五・三詣でもあり、火を扱ふ業者の守護神、 五穀豊穣の祖神として全国的な崇敬を受け、俗に「伊勢に七度、熊野 へ三度、愛宕さんには月参り」といわれている。 御例祭 十月二十一日 鎮火祭 四月二十四日 −社頭案内板− |