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上御靈神社
かみごりょうじんじゃ
京都府京都市上京区上御霊竪町495  Zenrin Data Com Maps display !!


有職桐

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式内社 山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 私云神式第二相嘗祭出雲井上上社一座是也
式内社 山城國愛宕郡 出雲高野神社
旧府社

御祭神
八所御霊
崇道天皇:早良親王、光仁天皇の御子、桓武天皇の同母弟
井上大皇后:光仁天皇の后
他戸親王:光仁天皇の子
藤原大夫神:藤原広嗣
橘大夫:橘逸勢
文大夫:文屋宮田麿
火雷神菅原道真
吉備大臣:吉備聖霊
相殿 小倉実起 小倉公連 中納言典侍局 小倉季伴
配祀 若宮:和光明神(菅原和子)

京都市上京区にある。
市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅の東。
境内は広く末社が多い。

「上御霊神社」は、俗称。
法人としての正式名は「御霊神社」らしい。

八所御霊。怨みを抱いて憤死した人々だ。
主に、政争に巻き込まれ、非業の死を遂げた人々。

八所御霊には諸説があるが、一般には、
崇道天皇、伊豫親王(桓武の御子)、藤原夫人(伊豫の母、吉子)、
観察使(藤原仲成か)、橘逸勢、文屋宮田麿、
菅原道真、吉備大臣、藤原広嗣、他戸親王の内から八柱の組み合わせ。

桓武天皇の御宇、疫病が蔓延し死者が多く出たため、
憤死した人々の祟りであると考えられ、
その怨霊を慰撫するために、貞観五年(863)五月二十日、
京都の神泉苑で御霊会が行われた。
この御霊会が当社ならびに下御霊神社の創祀であるという。

社伝によると、延暦十三年(794)、崇道天皇の神霊を祀り、
後に七座を加えたという。

神紋は、最初、「脳みそ」かと思ってしまった。
そんなはずはないので、牡丹かとも思ったが、社務所で確認したら、有職桐らしい。

若宮に祀られる和光明神に関して。
「神社辞典」には「菅原利子」と記されていたが、
「平成祭データ」には「菅原和子」とある。多分、こちらが正しい。


鳥居

神門

拝殿

手水舎

拝殿内部

本殿


八幡宮

大神宮・白鬚社・疫除社・淡嶋社
天満宮・多度神社・貴船社

稲荷社参道

稲荷社

神明社

厳島社

春原社・荒神社・稲葉社・今宮社・熊野社・愛宕社・熱田社・多賀社・厳島社
猿田彦社・貴布禰社・丹羽社・梅宮社・八坂社・廣田社・吉田社・日吉社
住吉社・龍田社・広瀬社・大和社・石上社・大神社・大原社・平野社
春日社・松尾社・八幡社・賀茂社・鴨社

崇道天皇:早良親王
 延暦3年(784)、桓武帝は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。藤原種継暗殺事件である。当時、長岡京造宮司であった種継は早良親王と敵対しており、親王が暗殺事作の首謀者と見なされたのだ。早良親王は、桓武帝の同母弟である。
 乙訓寺に監禁され、淡路へ配流されることになった親王は無実であることを訴え、自ら食を断った。そして10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭で絶命した。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。
 異変が連続して起こったのは、それからである。桓武帝の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と他界。さらに皇太子安殿の病気が長びいているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。朝廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。
 連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓武帝をはじめ為政者たち共通の思いであった。
 延暦19年(800)7月、桓武帝はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。

−『学研 天皇の本』−

井上大皇后・他戸親王
 井上皇后〔聖武の女(むすめ)、孝謙の妹〕は光仁天皇の后である。
 池戸(他戸)皇子を生む。太子となったが、その後寵愛が衰え、天皇と睦まじくなくなった。遂には天皇を呪詛し、太子を位に即けようとした。
 奸謀は発覚し、太子も陰謀ありとして没官され、当村に遷された。宝亀五年(774)四月二十五日、井上(皇后)・池戸(他戸親王)は共に自滅(獄死)した。
 その霊が大いに祟りをなした。延暦十九年(800)に従五位下葛井王(かつらいおう・かどいおう)を遣わし、勅して旧の如く贈官した。その墓を山陵(みささぎ)と称し、その霊を御霊大明神と号する。陵は御山(みやま:吉野川の半里南、五条市御山町)にある。
火雷神:菅原道真
 昌泰二年(八九九)累進して右大臣に至り、右大将を兼ねた。この時藤原時平〔左大臣・左大将〕と共に上皇(宇多)の勅を受けて天子(醍醐)を補佐し、万機を取り行った。天皇が朱雀院に行幸した時、上皇は天皇に、右大臣は年配でありその賢才は国を挙げて望む所である、専ら任用するがよい、と語った。そこで右大臣を召してその旨を宣べると右大臣は固辞したので取り止めた。左大臣(時平)はこれを聞いて大いに恨み、源光卿朝臣・藤原菅根朝臣と謀り、遂にはこれを譖った。天皇は疑わしく思ったが、左大臣の妹が皇后となり、内外から讒言が行われた。
 昌泰四年(九〇一)正月二十日に九州大宰府に左遷され、延喜三年(九〇三)二月二十五目配所で薨じた〔五十九歳〕。安楽寺に葬る。
藤原大夫神:藤原広嗣
 広嗣〔不比等の孫。宇合(うまかい)の子である〕は吉備真備・僧正玄昉両人に遺恨があった。蓋し玄昉は功績があって大后(宮子皇太夫人)の側に従侍し、密かに通じた。独り広嗣がこれを知ってその不義を奏するとともに、下道(吉備)真備を謗った。聖武天皇は仏乗に惑い玄昉を疑わなかった。玄昉は却って広嗣を讒した。ここに至って広嗣は大宰府の都督(大宰帥(そち))に左遷された。広嗣は大いに、怒り謀叛した。そこで大野東人を大将、紀飯麻呂を副将として討たせた。広嗣は肥前遠珂郡も城にいたが、板櫃(豊前)に出張って合戦した。広嗣は戦いに負け、船に乗って異国に逃れようとしたが、肥前の松浦郡長野村で官兵安倍黒麻呂が広嗣を虜にし斬った。その弟の綱手も殺された〔天平十二年(七四〇)十月〕。
 あるいはいう。広嗣の軍が敗北して自ら刀で首を切ると、その頸が大虚に昇り赤鏡のようであった。これを見た者は悉く怖れ死んだ。また、天平十八年(七四六)、大宰府の観音寺供義の日、玄昉僧正が導師となり腰輿に乗った時、虚空に声がして玄昉を捉え去った。後日その首が興福寺唐院に落ちた。これは広嗣の亡霊の所為であるとして、その霊を豊後国鏡宮に祭ったという。
文屋宮田麿
 文屋宮田丸〔淡海公の三男、藤原宇合(うまかい)の子〕
 仁明天皇の承和十年(八四三)、謀反の事が発覚し、捕えられて伊豆国に流された。一族皆流罪に、なった。
橘大夫:橘逸勢
 橘逸勢〔『神鏡抄』には逸勢は間佐名利(まさなり)と読むという〕
 『文徳実録』『日本後紀』等にいう。右中弁従四位下入居の子である。放胆な性格で細部に拘らたい。しかし隷書に巧みで宮門の額(大内裏安嘉門北面の額)に手跡が見在する(嵯峨天皇。空海とともに三筆の一人)。延暦の末に遣唐使に従って入唐した。唐の文人は橘秀才と呼んだ。帰朝すると教官を歴任したが、年老い、病み疲れたため静居して仕えなかった。承和九年(八四二)伴健峯〔とものこわみね 春宮の帯刀〕の謀反の事に連座し、拷問されても服さなかった〔淳和天皇の子恒貞親王を立てようとして旧臣らが潜かに謀反した(承和の変)〕。死罪を減じ伊豆国に配流された〔健峯は隠岐に流され、恒貞は出家させられた〕。逸勢が配所に赴く時に、一人の娘が泣き悲しみながら徒歩で従った。送監の官兵はこれを叱って去らせたが、娘は昼は止まり夜歩いてとうとう従いてきた。逸勢は遠江国板筑(いたつき)(板築)駅に行き着いた所で客舎で生涯を終えた。娘は身を捩じり叫んで哀泣した。そこで駅の傍らに葬った。娘は墓前に庵を作り屍を守って去らず、落髪して尼となり、白ら妙中と号した。父のために誓いを立て、夜もすがら苦行した。行路にそこを過ぎる者は、これに涙を流した。その後帰京し葬れとの詔があり、妙中は屍を負って京に帰った。時の人はこれを異として孝女と称した〔『唐書』には逸の字を免とする〕。
吉備大臣:吉備聖霊
 吉備真備〔前右大臣、正二位勲二等〕
 『続日本紀』にいう。右衛士少将下道朝臣国勝(しもつみちあそんくにかつ)の子である。霊亀二年(七一六)〔時に二十三歳〕、遣唐使に従って留学し学業を受ける。経史(経書と史書)を調べ読み広く諸芸に通じた。我が朝の臣、学生で唐国に名が伝わるのはこの吉備大臣と阿倍朝衡(仲麻呂)の唯二人だけである。天平五年(七三三)に帰朝し(天平六年、種子島に漂着)、正六位下を授けられ、大学助を拝授した。高野天皇(孝謙)は真備を師として『礼記』及び『漢書』を学んだ。恩寵甚だ厚く、吉備朝臣の姓を賜わった。天平勝宝四年(七五二)、入唐副使となる。帰朝(天平勝宝五年)後正四位下を授かり大宰大弐を拝し、筑前国怡土(いと)城を造る。天平宝字七年(七六三)、造東大寺長官に遷る。同八年藤原仲満〔なかまろ、一名を恵美押勝えみおしかつ〕が謀反した時、大臣は押勝が必ず通るであろうことを見計らって兵を分かって遮った。分割して指揮した計略が中り、遂に賊は計略に陥ち、旬日にしてことごとく平定した。その功で従三位勲二等を授かり参議中衛大将になる。天平神護二年(七六六)中納言に任じ、程なく〔大納言に転じ〕右大臣を拝し従二位を授かった。これより先、大学の釈奠(せきてん)の儀式(孔子をまつる儀式)が備わっていたかった。大臣は礼典(礼儀に関する規則)を考えて器物を始めて整え、礼容は見るべきものになつた。また、大和宿禰長岡と律令二十四条を刪定し、軽重の錯誤を弁別し、首尾の差違を矯正した〔桓武天皇の延暦十年(七九一)、詔によって始めて用い行われた〕。宝亀元年(七七〇)上啓して致仕したが、天子の詔があって許されず、ただ中衛大将を罷めた。同六年(七七五)十月二日に薨じた。時に年八十三。(『本朝通紀』も同文)
 〔△思うに、吉備公は下級の出身で二品に昇り、君寵を重くし天寿を全うした。何の恨みがあって霊神の第一とするのか。〕

−『和漢三才図会』−

旧府社。祭神は崇道天皇(早良親王、光仁の御子)・他戸親王(光仁の子)・井上皇后(光仁の后)・火雷神(菅原道真、北野)・藤原大夫神(藤原広嗣)・文屋宮田麿・橘逸勢・吉備大臣(吉備聖霊とも)のいわゆる八所御霊(八所御霊には諸説がある。)を祀り、相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典侍局・小倉季伴、そして若宮に和光明神(菅原利子)を配祀する。これらの諸神は、たとえば、『樵談治要』に「八所御霊と申は、むかし謀反をおこして、その心ざしをとげず、あるひは又何事にても、うらみをふくめる霊をまつられたる社なり」とあるように、いずれも怨霊の神々で、当社はその怨霊を慰撫するために、桓武天皇の御宇に勧請したという(社伝)。すなわち、この頃、疫病が流行し、そのため死亡者が多く出たが、それはこれら御霊の祟であるとされ、貞観五年(863)五月二十日、京都の神泉苑で御霊会が行われた。その時の御霊は崇道天皇、伊豫親王(崇道の御子)、藤原夫人(伊豫の母、吉子)、観察使(藤原仲成か)、橘逸勢、文屋宮田麿等で、この御霊会が当社ならびに下御霊神社の創祀であるという。

−『神社辞典』−



【 上御霊神社(印刷用ページ) 】

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