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大前神社
おおまえじんじゃ
栃木県栃木市藤岡町大前字磯城宮383  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴


十六菊

式内社 下野國都賀郡 大前神社
旧郷社

御祭神
於褒婀娜武知命(おおあなむちのみこと) 配神 神日本磐余彦火々出見命

豊城命 『神名帳考證』出口延経
大穴持命 『神名帳考證』伴信友
大名持命 『下野國誌』
大己貴命 『神名蝶』
於褒那武知命 神日本磐餘彦火々出命
一品中務卿具平親王 三品弾正尹阿保親王 四品中務卿上総常陸大掾貞純親王 『明治神社誌料』

栃木県栃木市。
JR藤岡駅の北、3Km。JR線路から西へ500m。
道路に面して南向きに鎮座している。

境内には小祠や石碑が多い。
拝殿後方に、一段高く盛り土され、本殿があるが、覆殿の中。

創立年代は不詳。

祭神は、於褒婀娜武知命大己貴命)。
下野国にはもう一つ大前神社があり、そちらも大己貴命。

当社は、磯城宮と号していたそうで、
祭神も豊城命豊城入彦命崇神天皇の皇子)とする説がある。
豊城命は、下毛野君の祖とされており、豊城入彦命にまつわる伝承も多い。

当社周辺には、「タタラ」跡が残っているらしい。

社名の読みは、本来は「オオサキ」なのだが、
近年以降は、「オオマエ」と読まれている。

明治までは、現社地の北400mの畑地にあり、記念碑が建っていたが、
土地改良のため、現在、記念碑は北200m付近にあるらしい。
古社地のあった記念碑を、古社地ではない場所に移動して、
何を記念してるんだろうかと思いながら、記念碑を見るのを忘れた。


境内入口

境内の鳥居

社殿

社殿

社殿

本殿

拝殿

境内社の石祠

神楽殿

延喜式内大前神社沿革史
鎮座地栃木県下都賀郡藤岡町大字大前字磯城宮三八三番地
大前神社はその先磯城宮と号す
祭神主祭神 於褒婀娜武知命
配神 神日本磐余彦彦火火出命
社殿本殿 幣殿 拝殿 神楽殿 社務所
手水舎 鳥居三基 狛犬三対 灯籠
祭日祈年祭 二月二十四日 例祭 四月三日
新嘗祭 十一月二十四日 夏祭 七月二十四日
元旦祭 一月一日
由緒  当神社は創立時代は未詳であるが人 皇六十代醍醐天皇勅撰を蒙り延喜五年八月 式内社に列せられ延喜式内の稱号をたまわ り下野国十一座の一社として神名帳に登載 されている。
社伝によれば天慶二年(九九三)平将門の乱の 際村中ことごとく兵火に焼かれ当社も焼失 したが間もなく再建された。
而し室町時代再度の火災により社運が衰い 祭祀を廃する事数百年であったと言ふ。
天正十九年(一五九一)徳川家康入府の際再建 され 元和八年(一六二二)当地が古河領とな り領主永井直勝は社地五反歩田四反七畝を 寄進し永井氏佐倉に移封された後も武の神 として近郷近在より崇敬されたといふ。
明治三年栃木県管轄となり近郷の総鎮守と されて明治五年十一月郷社に列格した。
現在の鎮座地は明治十二年四月移転された もので旧社地跡は北方約四百m離れた台地 であった旧社地跡の記念碑も土地改良によ って北方約百mの畑地に移されてゐる。
下野国誌によれば「オオサキ」と稱しているが 当社近郷では「オオマエ」とよんでゐ。
尚当社境内と近隣に九世紀と考えられる「 タタラ」跡が三基確認され鎔工傍らに住みた る多くのも見られ字天国府字国造字城坊 などの地名もあり古代よりの社歴を物語る

−境内案内より−



【 大前神社 (栃木藤岡町)(印刷用ページ) 】

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