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新海三社神社
しんかいさんしゃじんじゃ
長野県佐久市田口2394  Zenrin Data Com Maps display !!


梶の葉

式内社 信濃國佐久郡 英多神社
旧県社

御祭神
東本社 興萩命
中本社 建御名方命
西本社 事代主命 相殿 誉田別命

長野県佐久市にある。
小海線・臼田駅の東2Kmほどの田口に鎮座。
雨川に沿って東へ進むと、五稜郭で有名な龍岡城跡がある。
その城跡を過ぎて、しばらく進むと、当社の境内入口。

木製の鳥居が建っており、右手に社号標。
参道は、鳥居から北上するのだが、
鳥居から東へ進むと、東幸殿と御神木。
西へ戻ると、西幸殿があり、
当社駐車場へは、西幸殿の横の道を入っていく。

鳥居から参道を北上すると、
鬱蒼と茂る木々の奥に社殿が見えてくる。
参道を突き当たり、階段を上ると
正面に拝殿。右手に神楽殿。
拝殿の後方に、二棟並んだ本殿があるが、
この二棟は、西本社と中本社。
境内の右手、本殿の東側にもう一つの本殿・東本社がある。

創祀年代は不詳。

興波岐命を主神として東本社に祀り、
その父神・建御名方命を中本社に、
伯父神・事代主命を西本社に祀る。
このように、当社には3つの神殿があり、
よって新海三社神社と呼ばれている。

興波岐命は佐久地方開拓の祖神。
延文年間の『諏訪大明神画詞』には
「新開(にいさく)」の神と記され、大県の神とも称した。

この「開(さく)」が、佐久の地名となり。
「新開(にいさく)」から、新海という社号になったようだ。
また、鎮座地の田口は、佐久地方で初めて田が開かれた場所とも。

当地から西へ進むと上野国(群馬県)だが
伝承として、諏訪の建御名方命が、日光二荒山の母神を訪れる途中、
上野貫前の女神(荒船大明神)と契り、
興波岐命が生まれたとある。

寛政年中(1789−1801)
幕府寺社奉行に提出された「差上申済口証文の事」によると
新海三社神社は、佐久郡伴野庄・平賀庄・大井庄の三庄の総社で
式内社英多神社・長倉神社・大伴神社を併せ祀っている。
よって、当社の祭礼には、
佐久郡中の社人は騎馬で乗り込み神事を努めてきた。
しかるに、安原の諏訪大明神は英多神社と、
沓掛の八幡宮は長倉神社と、望月の御嶽大権現は大伴神社と主張し
当社への奉仕を拒否したことによって、争議となった。

『平成祭データ』記載の当社由緒によると、
当社を式内社・英多神社とする説があるらしい。

西本社と中本社は繋がった構成だが、
その間に、小さな空間があり、
祭神が降臨する御魂代石が祀られている。
1メートルほどの自然石の上に、
円筒形の幢身と笠と宝珠を積み重ねたもの。
総高は1.5メートルほど。
幢身には龍が彫刻され、
延文三年(1358)三月十二日の刻記がある。
社殿の周囲は縄で結界されていて近くで見る事ができなかった。
社務所の方に、近づいても良いかうかがったが駄目。
信仰の対象だから、仕方がない。

東本社は重要文化財に指定されているが、
その後方には、同じく重要文化財の三重塔がある。
当社神宮寺の塔として室町時代に建立されたもの
明治以降は、当社の宝庫として破壊を免れた。

拝殿の左手に、西十二社合殿があり、以下の神社を合祀している。
天照大神社、春日社、愛宕社、市杵嶋社、
稲荷社、富士浅間社、大日孁社、住吉社、
八幡社、諏訪社、伊弉册社、加茂社。
また、神楽殿の右手には天神宮と東十二社合殿。
伊勢社、八幡社、加茂社、松尾社、
大原野社、春日社、平野社、龍田社、
住吉社、大神社、廣瀬社、諏訪社。

当社境内には、幾つかの古墳があるので
それらに関しては、次ページに記載する。


西幸殿

東幸殿と御神木

参道

道祖神

境内

拝殿

神楽殿

西本社・中本社

東本社

御魂代石

上部を拡大

背後から下部

後方に層塔

西十二社

東十二社と天神社

三重塔

新海三社神社略記(元県社)
古来佐久の総社の称ある・重要文化財二を存する
一、御祭神
興波岐命(東本社)健御名方命(中本社)事代主命誉田別命(西本社)
二、創立
健御名方命の御子興波岐命(おきはぎのみこと)は新開神(にいさくのかみ)・大県神・八県宿禰神(やのあがたすくねのかみ)等とも称され、田口に本拠を構えて千曲川等の河川の氾濫原や平地を開拓した集団の長であり、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られた。八県宿禰神は貞観十年(868)正五位下を授けられている。田口には古墳が多く、神社付近の英田地畑古墳から蕨手刀が昭和四十年に出土し、有力高貴な方が住んで居たことが証明された。神社周辺の社地にも古墳が三つある。
三、新海三社神社と称し佐久郡の総社であったこと
健御名方命と事代主命は国土経営に大功をたてられ、興波岐命の御父神、御叔父神であらせられるのでともに齋祀して新海三社神社と称するに至った。佐久郡の人々は興波岐命の神恩に感謝し、祭典も盛大に行われ佐久郡の社家は佐久郡三庄三十六郷の総社である当神社の祭典に出仕した。
御神幸は往時、岩村田・春日・志賀・上平尾・余地等に出掛け、古くは東部町本海野への御神幸があった。神主が御霊代を奉じて騎馬にて御神幸(巡行)し御神幸先には御仮屋を建て神事を行った。延喜式内社の英多神社であるという説もある。
四、武将の崇敬が篤かったこと
源頼朝は草津方面に遊猟の節当神社に参詣、源氏の祖神誉田別命(八幡さま)を祀るよう沙汰されると共に社殿を修理再建し社領を寄進した。足利氏も当神社のことを沙汰し、武田信玄は永禄八年(1565)上州箕輪城攻略の際祈願文を奉り、天正年間には修築を行わせている。徳川氏も造営の内助費を下付し、竜岡藩主も祈願所とし、鉾、手水舎等の寄進や修復の寄付などしている。
五、重要文化財
(一)三重塔
社伝によると嘉祥二年(849)東隣にあった神宮寺の塔として建立されたものであると言われる。様式上からは室町期のものと認められ、明治四十年に国宝に指定された重要文化財である。全高約二十メ−トル、和様を主とするが唐様(禅宗様)も混在し、初重(唐様)と二、三重(和様)の垂木の方向の違い等にそれが見られる。
(二)東本社
建てたのは三重塔と同時代と見られ、昭和十二年に国宝に指定された重要文化財で一間社流造りである。注目されるのは木鼻で、母屋木鼻には笹の葉の薄肉彫りがあり、向拝木鼻は、木鼻の形が獣面化しだした初期のものである。
(三)御魂代石(みたましろいし)
中本社と西本社の間にある石幢形の石造物を御魂代石と呼んでいる。町指定有形文化財。幢身に左右相称の神代動物が彫られ、其の間に延文三年戌三月十二日(1358)の刻記がある。この石に耳を当てると諏訪湖の水音が聞こえると伝えられ、諏訪湖の御神渡りに毎年湖上にて参会される新海大神の姿がしのばれる。
六、主な年中行事
・一月一日歳旦祭・六月末(日)茅の輪神事
・一月六日御田植祭、筒粥神事・九月一日風切祭
・一月十五日御神符祭(おみふさい)・十月一日秋祭(例祭)
・一月末(日)天神社合格祈願祭・十一月中旬(土・日)七五三
・四月十二日春祭・十二月三十一日二年参り

−『平成祭データ』−



新海三社神社
 当社は、佐久地方開拓の祖神である「興波岐命」 と御父神「建御名方命」(諏訪さま)、御伯父神 「事代主命」(恵比寿さま)「誉田別命」(八幡さま) の四神をまつる佐久三庄三十六郷の総社である。
 古来、武将をはじめ人々の崇敬あつく、源氏、 足利氏、田口氏、武田氏、徳川氏、大給氏らが社 領寄進・神殿修理再建等を沙汰している。わけて も源頼朝は源氏の祖神「誉田別命」をまつるべく 沙汰し、甲斐源氏の流れをくむ武田信玄は永禄八 年(一五六五年)上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文 を奉り見事勝利をおさめている。
 三重塔(嘉祥二年=八四九年)、東本殿(室町 時代・信玄再興)は重要文化財、御魂代石は重文 指定申請中である。
例  祭四月十二日十月一日
特殊神事御田植祭一月六日
御神符祭一月十五日

−境内案内板より−



新海神社三重塔(重要文化財)
新海三社神社の神宮寺の塔とし て建立され明治維新の排仏毀釈 の際には神社の宝庫として破却 をまぬがれた。 風鐸の銘によ り永正12年(1515)の建 立と考えられる。様式は和様を 主としながらも随所に禅宗様が 取り入れられて居り、初重と二 三重の垂木の方向の違いなどに それが見られる。

−境内案内板より−



重要文化財
新海三社神社宝庫(三重塔)
明治四十年八月二十八日 指定
三間三層塔婆、屋根杮葺
 社伝によると、嘉祥二年( 八四九年)に創立し、文明( 一、四六九−一、四八七年  室町時代)年間に修理したと あるが、この塔は、様式、手 法上から室町中期のものと推 定されるので、おそらく文明 の頃再建されたものであろう。 形がよく整い、温雅の風調が あり、相輪に至るまでよく創 建当所のものが保存されてい る。

−境内案内板より−


もっと詳しい内容へ

【 新海三社神社 新海神社 (佐久市)(印刷用ページ) 】

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