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河上神社
かわかみじんじゃ
兵庫県洲本市五色町鮎原南谷592
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式内社 淡路國津名郡 河上神社 |
淡路島の中央部、五色町にある。
神戸淡路鳴門自動車道の津名一宮I.C.の南西7Kmほどの鮎原にある。
海の側にある五色町役場から、都志川を4Kmほど、南東に遡った場所。
境内は南向き、神門をくぐると、
天神川にかかる橋を渡る。
境内後方は、天神山と呼ぶらしい。
参拝はGWの初日、四月二十九日。
ちょうど、当社の大祭の日で、参道には出店が並び、
境内にも参拝客が多かった。
参道が塞がっており、車を入れる場所がわからず、
結局、境内裏の丘の道(裏参道か?)に車を止めた。
車を停めた場所の側に、「御旅所」があり、横に八幡宮。
今日は、ここでも神事が行われるようだが、
ひっそりとしていて落ち着く雰囲気。
八幡本殿の左には住吉社、右に高良社の小祠があった。
裏の丘に御旅所 | 御旅所横に八幡社 |
住吉社と八幡社 | 八幡社と高良社 |
ということで、裏側から境内に入ると、
本殿の右側に、境内社が並んでいる。
『味地草』によると、延長年中(923〜31)の鎮座。
ただし、相殿の天満宮鎮座由来によると、
菅原道真公が、延喜元年(901)に当社に参拝祈願しているとあり、
それが正しければ、鎮座年代はもっと古い。
領主蜂須賀氏の崇敬を受けており、
蜂須賀家住居方向に当っていたことから、
本殿は、もと巳午の方角(南南東)を向いていたが、
萬治元年、午未方向(南南西)に替えたらしい。
相殿の天満宮は、山城国北野社よりの勧請。
菅原道真公が筑紫への下向の途上、
「都志」の地名が、都への復帰を願う心に適うとして、
当社に参拝した故事によるもの。
式内社・河上神社の論社だが、
当社が河上社と称したという古い記録がないため、
斗ノ内の河上社を勧請したという説もある。
本殿右の境内社は、右から、戸隠社、下諏訪社。
そして六棟の祠が並んだ熊野十二社。それぞれの祠に二社が合殿されている。
本殿近くに、上諏訪社。境内には、玉生社。
他にもあったかもしれないが、祭日でゴチャゴチャしていたので未確認。
本殿や拝殿の幕、賽銭箱など、いろいろな場所に梅紋が付いていた。
神門、左に天満宮、右に河上神社 | 神門から橋を渡る |
境内社殿 |
境内に出されていた神輿 |
社殿 | 本殿、よく見えない |
熊野十二社 | 戸隠社、下諏訪社 |
玉生社 | 賽銭箱の神紋 | 上諏訪社 |
河上神社天満宮
御祭神と御神徳
由緒
本社河上神社は創立年代不詳であるが延喜式神名帳に『淡路国津名郡河上神社』とあり古くは国幣にあずかり崇拝されてきた神社である。相殿の天満宮は延喜元年(九〇一)菅原道真公が筑紫に下向される途上播磨灘で強い北風にあい船を都志浦に寄せられ「川上に貴き霊神あり」と聞かれて当河上神社にお参りし祈念されたという。 その由縁をもって菅公が太宰府に於いて薨ぜられた後里人たち敬慕して此所に管廟を営みお祀り申し上げ以来淡路唯一の天満宮として崇められている。 −境内石碑より− 本社の儀は、創立年代詳かならざれども延喜式神名帳に「淡路国津名郡河上神社」とある、即ち是にして、往昔祈年国幣に預り給ひし古社たり。 相殿天満宮の儀は、菅原道真公曾て讃岐守御在任中御上洛の途、都志に御船を留められ此の郷名「都に志す」とは我が意を得たり。聞く此の名神あり、神威赫々須らく賽して加護冥助を祈らんと、乃ち流れを泝りて当所に御参向あらさられたりき。此の由縁をもちて、公太宰府に薨ぜられし後、里民敬慕止み難く、此所に管廟を営み奉斎せりとなん。爾後淡路に於ける唯一の天満宮として全島民の尊信聚まり、代々の守護職殊に舊藩主阿波守蜂須賀家の御崇敬極めて厚く、徳島城鎮護の祈願所として、代々社殿の再興修築怠らず、年々奉行を派遣して大祭を執行せられたりき。明治四年郷社と定められたりしが、明治二十七年六月四日縣社に昇格せられ、益四方の崇信深く、其御神徳に賽するもの日に年に多きを加ふ。 −『平成祭データ』− |