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八幡宮
はちまんぐう
富山県砺波市高波1788  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 越中國礪波郡 長岡神社
旧村社

御祭神
誉田別尊
配祀
大若子命 姉倉比賣命

富山県砺波市にある。
JR城端線・砺波駅の北西5Kmほどの高波に鎮座。
道順は言葉では説明できないが、田の中にポツンと一つ、社域の森がある。

東向きに参道入口があり、「八幡宮」と刻まれた社号標が立っている。
参道を進むと、境内入口の鳥居。境内や社殿は北向き。
鳥居をくぐると、右手に「西宮森集落農事集会所」、つまり公民館がある。
鎮座地の字が西宮森なのだと思う。
『平成祭データ』には、当社の通称は川田八幡宮ともある。

境内の南奥に社殿。拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿覆屋も瓦葺。
残念ながら本殿の形式は判らない。

境内左手に由緒を刻した立派な石碑が建てられている。

参拝は晩秋の日の午後。夕方近く。
境内はそれほど広くは無いが、雑草は綺麗に刈り取られ、
植栽も美しく、氏子の方々に大事にされている農村の神社だ。

社伝によると、垂仁天皇の頃、阿彦という凶賊がおり
阿彦討伐の勅命を受けた大若子命が、下向の際、
越の小竹野において戦略会議を行っていた時、白姥(白髪の老婆か)が現れ、八権布八折を授けた。
大若子命は、教えに従い、その布で八鉾の幡を作り、阿彦を攻め、これを平らげた。
大若子命凱旋の途次、ここに祠を建て、八鉾の幡を納めて八幡宮として祀ったという。

『式内社調査報告』に、式内社・長岡神社の論社として宮森の社が挙げられており、
東宮森の春日社か、西宮森の八幡社の何れかを長岡神社とする説があるらしい。

この「西宮森の八幡社」が当社のことだと思う。
ただし、由緒には式内社という記載はなく、もともと八幡として祀られたとあり、
長岡神社とする説は弱い気がする。

ただ、当社の由緒は、一國一社八幡宮の由緒に似ていることから、
あるいは、本来は長岡神社であったものが、一國一社八幡宮の影響を受けたという可能性もあるが。

配祀の大若子命について。
境内由緒石碑には配祀の神名は記されておらず、
『平成祭データ』には、垂仁天皇、姉倉比賣命、
『富山県神社誌』には、垂仁天皇大君子命、姉倉比賣尊とある。
由緒の記載から、垂仁天皇ではなくて、大若子命なのだと思う。


参道と社号標

鳥居

境内

由緒石碑

社殿

八幡宮
鎮座地 砺波市高波七二九番地
祭神 譽田別尊、垂仁天皇大君子命、姉倉比賣尊
春祭 三月二十一日
秋祭 九月十五日
境内地 二八二坪
氏子数 二二戸
由緒沿革 垂仁天皇八十一年の頃阿彦と言う兇悪が 居り暴悪増長限りを尽したれば天聴に達し大若子命 に阿彦討伐の勅令が下った。大若子命越路下向あり、 越の小竹野に玉趾を留め宣議を凝らし給う処白姥現 れ八権八折を授け給ふ。大若子命教に従い八鉾の幡 を作り阿彦を攻め給う、程なく阿彦討死し乱を平げ 凱旋し給う時茲に祠を建て八鉾の幡を納め給い八幡 宮と称え崇め奉る。白鳳四年天武天皇より除蝗の御 祈禱を社命あり。文武天皇より宸幹御下賜あり。天 平年間越中国司大伴家持幣帛を奉る。仁寿元年正六 位を贈られる。貞観三年従五位を贈られる。治承年 間平教盛一千有余坪の地所を本社へ領せらる因に言 う本村字神成田は旧社地にして字八幡田は旧社領な りと。永禄年間、天正年間二度の兵乱により荒廃し 今僅かに百坪以内の社地なるも斯の如き由縁の社柄 である。(旧社格 村社)

−『富山県神社誌』より(原文ママ)−


上記の『富山県神社誌』では当社の住所が「高波七二九番地」となっていた。
実際に「高波七二九番地」には別の八幡宮が鎮座している。
 Zenrin Data Com Maps display !!

当社から東へ2Kmほどの位置だが、同じ高波にある。
『式内社調査報告』にある宮森の社(西宮森の八幡宮と東宮森の春日社)の
東宮森春日社からも東へ500ほどの位置で、長岡神社の論社というわけではないが、
気になったので参拝してみた。

この社の創祀年代・由緒は不詳だが、古来、産土神として崇敬された指定村社。
祭神は、誉田別尊となっている。


高波七二九番地の八幡宮社頭

境内

社殿

神馬像

本殿


【 八幡宮 (砺波市高波)(印刷用ページ) 】

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