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大高山神社
おおたかやまじんじゃ
宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字台部2−1
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式内社 陸奥國磐井郡 配志和神社 |
宮城県大川原町にある。
白石川の北側、4号線の側に鎮座。
北白川駅から北へ、白石川を渡って1Kmほどの神山という丘の上。
赤い欄干の小橋を渡り、赤い鳥居をくぐると、階段があり、
階段の上には南蛮鉄の鳥居。夕方の参拝で、正面に西日。
参拝した時には、鳥居の横の柵の中に白い犬がいた。
おとなしい犬が、鳥居を撮影している僕を、
小首をかしげながら見ていた。
社伝によれば、日本武尊東征のおり、当地に仮の宮を建設し
敏達天皇元年(571)、跡地に白鳥大明神を祀って創建。
崇峻天皇2年(588)に、橘豊日尊(用明天皇)を合祀した。
『奥羽観蹟老志』によると、
橘豊日尊は勅命により、当地に滞在し、
玉倚姫という美しい娘と出会う。
玉倚姫は、白鳥が胎内に入る夢を見て懐妊。その後、皇子を生む。
橘豊日尊が命により、三年後には迎えると言い残して都へ戻る。
しかし、三年経っても、連絡はなく、玉倚姫は病に倒れる。
乳母は、皇子を抱いて河畔へ行き、
「あなたは神明の化身だから、母上の代わりに、父上を呼び戻して」
すると皇子は白鳥になって飛び立った。
玉倚姫が死に、墓が建てられると、白鳥が日夜悲鳴して空中を旋回していたという。
その白鳥を祀り「白鷹社」を創建、後に「大鷹宮」となったという。
元は、現在地の北方2Kmほどの小山に鎮座していたが、
元禄年間の火災により、新開に遷座。さらに、大正3年に、現在地に遷座した。
新開の古社地には、石の小祠があるらしい。
社号標と鳥居 | 参道階段 | 鳥居横におとなしい犬 |
階段上に南蛮鉄鳥居 |
拝殿 | 境内の石碑 |
本殿 | 拝殿 |
蚕影神社 | 鉄九輪塔 |
鐘 | 舞殿 | 境内から南蛮鉄鳥居 |
御由緒
人皇三十代敏達天皇の元年(五七一年)日本武尊を祭神として創建されたが、推古天皇の御守、橘豊日尊(三一代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀された。縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せ見ることによって、日本武尊が夷賊征伐の際、この地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭した。 場所も新開の台の山であったが、元禄初期の火災焼失によって、新開一二六番地に移し、その後大正三年に金ケ瀬神山に移築遷座され現在に至っている。 延喜式神名帳によると当時陸奥国に百座の延喜式神社があり、その内大社が十五座、小社が八五座で大高山神社は大社の一つ。全国二八五座の一つでもあり郡内唯一の神社である。 本殿は元禄の建物で、正応六年銘(鎌倉時代中期)の鰐口は東北最古のものとして国指定重要文化財になっている。 −『平成祭データ』− 大高山神社(延喜式内社)
江戸期まで柴田郡總鎮守として崇められた当社は、敏達天皇
が即位した敏達元年(571)に日本武尊を祭神とし創建、後に
推古天皇御代、聖徳太子の父橘豊日尊(用明帝)も合祀された。
承和9年(842)従五位の下から従五位に昇叙(格上げ)、左
大臣藤原忠平がまとめた延喜式には、国から貢ぎ物を受ける
全国285社の一社となり、明治5(1872)には郷社となる。
本殿は江戸中期の建物で、施設内には国重要文化財の東北最
古の鰐口(1293銘)、文治年間(1185〜1189)藤原忠衡寄進
の鉄九輪塔、江戸期の絵馬など貴重な文化財を多く所蔵する。
−案内板より− |
【 大高山神社(印刷用ページ) 】