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天石門別安國玉主天神社
あまのいはとわけやすくたまぬしあまつかみやしろ
高知県吾川郡いの町神谷755

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式内社 土佐國吾川郡 天石門別安國玉主天神社 |
高知市内から西へ向かう194号線を進む。
仁淀川沿いに進んだ神谷にある。
道路から少し脇へ下り、北へ入る道の所。
地図には、貴船神社とあったが、貴船神社と合祀したもの。
村社であった天石門別安國玉主天神社と
郷社であった貴船神社の合祀で、郷社となった。
創祀年代は不詳。
式内社・天石門別安國玉主天神社の論社の一つ。
江戸時代、棟札が発見され、藩から正式に式社に認定されたが、
明治三年の神社改正の際、
仁淀川上流の黒瀬の天石門別安國玉主天神社が
式社と確定され本宮となり、当社は式社ではなく新宮とされてしまった。
が、現在でも、式内の社号標を鳥居脇に掲げている。
発見された棟札は、上流から流れて来たものということになったが、
そもそも、棟札の発見も、「霊夢」により三人の神主が
巖の上で発見したもの。怪しいといえば怪しいのだ。
だが、神社背面は岩肌で、巨大な磐であることは確か。
194号線の無い時代には、仁淀川沿岸の岩山であったろう。
神を祀るには相応しい場所ではある。
それは、天石門別安國玉主天神社では無いかもしれないが。
境内背面の岩側に幾つかの小祠が並んでいるが詳細は不明。
資料には、境内社に神母神社・白兎神社とあるがこれか。
現在の拝殿は、貴船神社の拝殿を修築したものらしい。
社号標 ![]() | 鳥居 ![]() | 鳥居扁額 ![]() |
境内入口は横から ![]() | 境内社 ![]() |
社殿 |
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拝殿 ![]() | 本殿 ![]() |
境内背後の岩山 ![]() | 岩肌に接するように本殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
神社明細帳に、勧請年月縁起等未詳だが、住昔
より小祠を祭り来れりとある。『土佐國式社考』は、「重遠
謂、此社在二神谷坤隅山上一、舊山麓巨巌下有二叢祠一不レ知二
何社一、元録壬甲、波川神主偶得二棟札拾巌穴一、驚而申レ府、
明年新徒二于此地一、邇日國宰寄二附水田若干一、祭祀加レ敬此
社之顯、豈人力之云哉、」その棟札については更に「其礼
云、天野岩戸安國玉之天神、天文九年(一五四○)庚子霜月
八日、勝賀瀬越後造二立之一、」と。引用が長いが、これが藩
政期、當社が式社と認定されたキメテである。(棟礼の末尾
には更に、祭日九月十八日下分勝賀瀬衛門太夫とある。)。 『皆山集』『南路志』には棟礼の発見について詳しい。 元禄五年(一六九二)の棟礼の発見者高加茂壹岐は、発見 の前夜同じ霊夢を見た日下・鹿敷の神主二人と共に巌石の 許に集り、波川の神主が魁して巌に梯をかけ登り蔦葛をむ しり明け、昨夜の夢の如く棟札を得た。勝賀瀬氏は、仁掟 川上流の勝賀瀬を本拠とする土豪で、神谷にも勢力を伸ば してゐたことは、『由緒畧記』に、勝賀瀬氏は惟宗姓にし て古へより神谷に土居を構へてゐたとあるによつても明ら かである。 −『式内社調査報告』− |
【 天石門別安国玉主天神社 天石門別安國玉主天神社 (神谷)(印刷用ページ) 】
