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荒穂神社
あらほじんじゃ
佐賀県三養基郡基山町大字宮浦字宮脇2050  Zenrin Data Com Maps display !!


丸に平四つ目

式内社 肥前國基肄郡 荒穂神社
旧県社

御祭神
瓊々杵尊 五十猛命
配祀
荒穂大明神 下鴨大神 八幡大神 宝満大神 春日大明神 住吉大明神

天津彦々瓊々杵尊 配祀 鴨大神 八幡大神 宝満大神 春日大明神 住吉大明神
『神社明細帳』より
祭神不明 『特撰神名牒』
祭神空白 『神社覈録』

荒穂大明神 が妥当なところだと思う。

基山の麓、集落内にある。
元は基山山頂にあったということだ。
基山は五十猛神による「日本植林発祥之地」であり、
天智天皇による「基肄城跡」がある。

宗氏の支配を受けていたので、対馬との関連もあるかも。
神紋も宗氏と同じ目結だ。

創祀年代は不詳。
式内社・荒穂神社に比定されている古社。
社伝によると、瓊々杵尊が基山に登り、国見をした霊地であるという。

基山の伝説に、「木の山(基山)の東に、山道を通る人たちの半数を
殺す悪神達が住んでいたが、五十猛命に退治された」
という話がある。

筑後國風土記に、筑紫の語源として、「筑前と筑後の境に、
鞍韉尽(したくらつくし)の坂があり、そこに荒ぶる神が居り、
往来の人の半分を殺し、半分が生かす。
その数が多く、人尽命(いのちつくし)の神と言う」
とある。
筑前と筑後の間といえば、この基山のあたり。
この二話の根は同一のものかもしれない。

周囲の道路は整備され、基山には草スキー場が出来ている。

鳥居から真直ぐ参道・拝殿・本殿とつづく。
周囲には、大きな寺が多く。そちらの参拝客の方が多い。

拝殿右手に伝説の石が3つ並んでいる。


鳥居

社号標

参道

参道

境内

境内

拝殿

本殿

伝説の石

境内社

庚申などの石碑を安置

石祠

水神

石祠

荒穂神社由緒
祭神 瓊々杵尊 五十猛命 他六社
 当社は「日本三代実録」貞観二年(八六〇) の項の荒穂天神の名で神階昇叙の記事がみえ、 延喜五年(九二七)撰進の「延喜式」神名帳 に社名がみえる式内社(肥前国では四社)で 由緒が古く格式の高い古社である。
 藩政時代は基肄郡上郷総社・明治六年郷社 昭和三年県社・戦前は、基山村(町)の産土 神社であった。
 祭神は古来諸説があるが民俗学上の原初は 基肄山山頂の玉々石を盤座として農業に恵み を与え、豊穣をもたらす、自然神・産霊神で あると考えられる。貞享元年(一六八四)の 「荒穂神社縁起」には、中央に荒穂大明神 左一に下鴨大神、左二に八幡大神、右一に宝 満大神、右二に春日大明神、右三に住吉大明神の六社としている。
 創建は同縁起に人皇第三十七代孝徳天皇の 御代(六四五〜六五四)基肄国造物部金連の 後裔金村臣によるとされている。社殿は最初 基山山頂にあったが、戦国の兵火にかかって 転々とし、当地に造営されたのは貞享二年で ある。現社殿(流れ造り)の拝殿は文政二年 (一八一九)神殿・中殿は安政五年(一八五 八)の改建になる。神課は十二人であった。
祭礼

歳旦祭  一月一日
春 祭  二月十九日
斎 祭  五月一日より七日間
夏 祭  七月十九日
茅の輪  七月三十一日より
人形流し       三日間
神幸祭  九月二十三日(秋分の日)
月次祭  毎月十九日


伝説の石
 子宝石
この石に腰を掛け祈願する と子が授かると言ます
 荒穂の神と高良の神の投合 された石と伝えられ石の上部 に指の跡形がついてゐます
荒穂の神の投げた石は高良の 神の神殿下に有る言ます
 荒穂の神の馬が基山の頂上より 飛降りた石と伝えられ馬の蹄の 跡形がついてゐます
この謂れが斎祭の起りと伝え られてゐます

−境内案内(原文のまま)−

基山は、ハイキングコースにもなっている。
あまり高い山ではないが、見晴らしも良く気持ちがよい。
山頂は台状になっていて、「たまたま石」がある


基山山頂

日本植林発祥之地

たまたま石

基肄城跡


【 荒穂神社(印刷用ページ) 】

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