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塩湯彦神社 奥宮
しおゆひこじんじゃ おくみや
秋田県横手市山内大松川字御嶽山3
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秋田県横手市にある。
横手駅の北東8Kmほどの位置にある御嶽山(744m)山頂に鎮座。
横手駅から3Kmほど北上し、吉沢川に沿って東へ続く道に入る。
大松川まで続く、この道の何処かに、御嶽山登山口がある。
道路は整備されて、カーブも緩やかなので
周囲の景色を眺めながら走っていると、登山口らしき場所に到着。
このあたり →
近くには、追分の一本杉が立っている場所。
地図で確認すると、山頂まで2Km近く歩くことになる。
実は、ここまで車道を運転していると、
「熊 出没 危険」という警告がいくつもあったので、
一人で準備も無く山道に入る事に、若干の躊躇。
地図を見ると、他に道があるようなので、
もう少し先まで車を走らせ、様子をみる。
しばらく走ると、アスファルトの駐車場があり車が止まっていた。
車の周囲に、地元の方が数人いたので、御嶽山までの道を聞く。
このあたり →
どうやら、その人達は御嶽山からの帰りらしく、
その駐車場から北へ入る未舗装の道を進むと、
参道石段下の水場まで、車で行けるらしい。
ただし、かなりのダート道らしく、注意して運転してとのこと。
お礼を言って、砂利の道に進入する。
話の通り、砂利というか石がゴロゴロと転がる道。
雨水でできた、深い溝にタイヤをとられそうになりながら、ゆっくりと走る。
そんな道を2Km以上走った場所に広場があり、水飲み場がある。
そこに車を止めて、石段の参道を登る。
石段は、ほぼ真っ直ぐに登っており、482段あるらしい。
熊が出るかもしれないので、周囲に注意しながら登ると山頂。
中央に、大きな社殿が立っている。
創祀年代は不詳。
本来は、御嶽山の温泉(塩泉?)の神であり、
昔は、山麓に温泉が多かったらしい。
また、御嶽山は役の行者によって開山されたとされ、
熊野系の修験道の影響で、熊野堂とも称され、祭神は速玉尊。
さらに、山岳信仰の影響で、大山祇命も合せ祀っている。
山頂の社殿が倒壊し、祭祀は、鶴ヶ池の里宮で行われていたが、
昭和57年、山頂に新本殿が再建された。
社殿の後方に、ブロックで囲まれた祭壇がある。
中には、蝋燭立などもあり、神道ではなく、仏教的なもの。
修験道の祭祀が、今も続いているのだろうか。
あるいは、社殿倒壊した後にも続いた祭祀の施設かもしれない。
参拝を終え、石段を下って車に戻る。
登ってきた砂利の道を、こんどは下らなければならない。
登りの時よりも、さらに注意しながら車を運転。
登りでは気づかなかったが、途中、白滝観音へ向う分岐点がある。
が、車が入れないそうもない道なので、そのまま下る。
当社は、修験道の影響濃い神社だが、
女人禁制ではなかった珍しい場所。
白滝観音への信仰の影響らしい。
歩道の参道入口 | 周囲の道には熊注意 |
車でここまで、水場 |
歩道の参道入口近く 追分の一本杉 | 水場から階段 | 482段の直登 |
山頂境内 |
社殿 | 社殿 |
塩湯彦神社再建記念碑
御嶽山は七百四十四米の高山でその昔役の
行者の開山と伝えられ一千年の歴史を持つ
由緒ある霊山であるその塩湯彦神社の社殿が昭和三十八年の豪 雪で倒壊し山は荒廃の一途を辿った この 現状を見かねた横手市杉沢地区の青年有志 三十名が昭和四十八年九月自発的に御嶽山 開発委員会を組織し御嶽山のあすを開くひ たむきな活動を続けてきた その中で社殿 再建の提唱が持ちあがりこれを実現させよ うと横手市山内村の同志が寄り合い昭和五 十五年八月四日当再建奉賛会を結成した 以来住民への協賛呼びかけと神社再建工事 が進捗し昭和五十七年七月二十日五百余名 の参拝者を得て塩湯彦神社の竣工式を荘厳 に挙行 青年の抱いていた再建の夢が見事 ここに実現されたのである よってその功 を碑に刻み永く記念するものである 昭和五十七年十月三十一日 建之
−社前記念碑より− 塩湯彦神社
御嶽山頂、標高七四四メートルに鎮座する
塩湯彦神社は、役の行者の開山と伝えられ、
九二七年、醍醐天皇が定めた「延喜式神名帳」
に記された、県内で
最古の神社として知
られ、昭和四十六年
(一九七一)豪雪のため
社殿倒壊し昭和五十
六年再建された。五穀豊穣、家内安 全、合格祈願、雨乞 いの神として信仰さ れている。 −林道にあった案内板より− 案内板と記念碑で、社殿倒壊年が違うのはなぜだろう
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