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中津神社
なかつじんじゃ
長崎県壱岐市勝本町北触226
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式内社 壹岐嶋壹岐郡 中津神社 名神大 |
勝本港から南東、芦辺港方面へつづく23号線沿いにある。
すぐ近くに新城神社があり、そちらの方が有名らしい。
道路脇に、新しい白い鳥居があり、道を登ると境内がある。
当社も延宝の式社査定で、橘三喜によって、
式内・中津神社に比定された神社であるが、
これにも否定的な意見が多いようだ。
「中津」という名から、海近くにあるはずで、
勝本港にある聖母宮は、国主崇敬七社の一で、
壱岐二宮とも称されているが、式内社に比定されていない、
などの理由から、『式内社調査報告』では、
勝本港にある聖母宮が中津神社であり、当地の中津神社は
祠官であった壱岐氏が居城近くに分祀したものであろうとしている。
山腹にある神社で、往時は鬱蒼とした森に囲まれた境内だったと思うが、
現在は、社殿前は整地され、運動公園のようになっている。
また、中腹の鳥居横には、北触公民館があり、
地域住民の憩いの場となっているようだ。
周囲の道路も、舗装整備され、明るい雰囲気になっている。
部外者にとっては、少し寂しい気がするが、
寂れて廃絶するよりは100万倍まし。
明治41年、当社に合祀された佐肆布都神社も
延宝の式社査定で、橘三喜によって、式内社に比定された。
以前は、石祠があり、その後ろに佐肆布都神が乗って来た
船石という大石があったらしいが、今は見当らない。
道路脇にある鳥居をくぐり坂道を登ると、北触公民館の前にでる。
そこに、古い石鳥居と、石を積んだ燈籠があり、
階段を上ると、運動公園になっている。
公園では、近所の方々がゲートボールをしていた。
公園奥が一段高く、社殿があり、
拝殿後方が、さらに一段高く、本殿が鎮座している。
境内入口の鳥居 |
拝殿で参拝をしていると、一匹の白犬が足元に擦り寄って来た。
ゲートボールをしている人が連れてきたようだ。
鼻を鳴らしながら、尻尾を振っていた。
拝殿から後ろへまわり、本殿を一周したところで、先ほどの犬と再会。
が、今度は猛烈に吠えてくる。
今にも飛び掛りそうな勢いだったので、本殿を逆に回り、公園へ下りる。
周囲を駆け回りながら吠えていた犬がこちらに気付き、
なおも吠え続け、駆け寄って来る。
最初は笑っていた、近所の方が、驚いて犬を押さえてくれた。
神社参拝では、犬に吠えられる事が多い。
たいていは、無視していれば、すぐに治まるのだが。
境内、左隅に、吠え続けた犬 |
社殿 | 社殿 |
石祠 | 本殿 | 本殿 |
中津神社(旧式内社)(旧式内社佐肆布都神社を合祀する) 旧称 中津宮 位置 勝本町北触二二六番地 祭神 天津日高彦火瓊々杵尊 天兒屋根命 天太玉命 相殿 経津主命(明治四十一年佐肆布都神社合祀による) 祭日 三月十四日(以前九月十四日) 現宮司 吉野六男 『延喜式神名帳』に「壱伎島壱伎郡中津ノ神社名神大社」、『吉野文書』に「中津神社は壱岐郡管領の神社也」、『壱岐 国神名記』に「新城村中津神社、大、改以前は中津宮と云、式外と見ゆ」、『壱岐国神社帳』に「河角、中津神社、大 神、二十四座之内、有社拝殿、定祭九月十四日、延宝四年六月国主より木鏡神体石額を献ぜらる」、『壱岐国神社考』 に「新城村河角山に古来中津宮と称する小社あり、之を式内中津神社とす、或は然らむ、長門国中津の住吉神社と同 体ならずや、若然らぱ祭神は住吉三神なるべし」、『壱岐国惣図打添』に「新城村、中津神社、式内二十四座之内、祭 日九月十四日、祠官榊原主税、祭神、天津彦々火瓊々杵尊、天兒屋根命、太玉命、嵯蛾天皇草創、神宝木鏡一面、石 額一双、延宝四年六月源鎮信公御奉納」、『壱岐名勝図誌』に「中津宮、在中津山(中略)当社ハ神名式に所載壱岐 郡中津神社名神大是なり(後略)」、『壱岐嶋式社沿革考』に「一書に仲姫尊を祀るとあり、万治四年の棟札に仲津宮と 書けり、されぱ祭神を神号に冠して中津宮とせるか、併し中津神社は名神大にましませぱ古今御崇敬国幣七社の一な る勝本聖母明神か」、『壱岐神社明細帖』に「新城村鎮座、中津の越、中津神社、但式内、名神大、壱岐郡官領ノ神 社トアリ(中略)社記曰、嵯峨天皇弘仁二年辛卯冬十月朔日壱岐郡新城邑川須見ノ辺リ中津ノコシノ峰ニ鎮座奉ル、 其例記曰、中津神社ハ壱岐郡管領之神社ナリ所載于延喜式壱岐島二十四座之其一也、北触中ヨリ崇敬奉ル、社地六畝 十九歩」とある。 当社は、社記によると弘仁二年(八一一)十月一日に鎮座したと伝え、延宝四年(一六七六)の式内調査の折りに 橘三喜は『延喜式神名帳』に記録される名神大社中津神社をここに査定し、藩主松浦鎮信から木鏡の御正体と烏居の 石額が献納された。 現在、合祀される佐肆布都神社は、 『延喜式神名帳』に「壱伎島壱伎郡佐肆布都神社小社」、『壱岐国神名記』に「佐肆布都神社としるす所なり、佐肆布 都神社小神、改以前は佐肆布智大神といふ、亦式外といふ、古老の伝云、むかし佐肆布都神石船にのりて比の地に亘 り給ふ、其石船は神居の丑子にあり、今案ずるに船石是なり、又石祠の後に大石二つあり、一つは周匝四間三尺六寸、 高壱間三尺、一つは周匝三間三尺、高七尺七寸三分、神石と見ゆ」、『壱岐国神社帳』に「打田佐肆布都神社小神、上 屋あり、定祭九月十八日、古来鎮座年数不知、延喜式にのする所の神社なり」、『壱岐国惣図打添』に「同村(注・新 城村)佐肆布都神社、式内二十四座之内、祭日十一月十八日、祭神、経津主神、嵯峨天皇草創、神宝、木鏡一面、石 祠、延宝四年六月源鎮信公御奉納」、『壱岐名勝図誌』に「佐肆布都神社、在打田里、石祠、卯辰向、延宝四年国主奉 納なり、上屋、五尺方、瓦葺、境内東西十八間半、南北十九間半、周囲六十七間半、舟石、図出上、畠中にあり、去 御山北十七間半、其形勢真の舟の如し、当社ハ式の神名帳に所載、壱岐郡佐肆布都神社なり、延宝改以前ハ佐志布知 大明神といひしなり」、『壱岐神社明細帖』に「新城村鎮座、佐肆布都神社、地名サシフチ、北触、但式内、小社、無 氏子、正殿、石祠、上屋、桁五尺三寸五分、梁五尺三寸五分、祭神、経津主神、御木鏡、社記曰、五十二代嵯峨天皇 弘仁辛二卯冬十月朔日新城村打田ノ上リ佐志布知ト云フ彼ノ所ニ鎮座奉ル依テ佐肆布都神社ト称シ奉ルト旧記ニ在リ 又ノ地名ヲ称シテウツ田トモ云ヘリ、千載千延喜式壱岐島二十四座其ノー也、社地四畝八歩、造営所中ヨリ」とある。 延宝四年(一六七六)橘三喜によって式内社に査定された。 −『勝本町史』− |