[HOME] > [神社記憶] > [東海地方] > |
|
富賀神社
とがじんじゃ
東京都三宅村阿古字富賀山
|
|
式内社 伊豆國賀茂郡 阿米都(和)氣命神社 |
東京から180Km南にある三宅島にある。
三宅島は火山の島で、2000年の噴火から5年間全島避難が続いていた。
2005年に避難解除され、島民は島に戻り、
そろそろ神社参拝も可能だろうと、2008年5月に訪問した。
当社は三宅島の南西に鎮座。
島を周回する212号線に参道の入り口があり、鳥居が建っている。
鳥居をくぐり、200mほど進むと境内。
このあたりは噴火の影響で、時折ガスが発生するらしく
参道車道脇には警告が出されていた。
一応、港の売店で簡易のガスマスクを購入していたが
参拝当日には、ガスは出ていない様子。
ちょっとどきどきしながら参拝開始。
2007年に境内社殿は修復されており
参道も綺麗に整備されていたが、背後の丘の木々は禿山の雰囲気だ。
境内中央に新しい拝殿があり、右手に神輿殿。
拝殿の後方に階段があり、階段の両脇に境内社が2社ずつ祀られている。
階段を上ると本殿があるが、木々も疎らで、まだまだ寂しい。
いづれ木々が繁茂して、鬱蒼とした森になるのかもしれない。
創祀年代は不詳。
三島大明神(事代主命)が、天照大神の詔をもって
伊豆諸島をお造りになられた時、三宅島は、火力によって造り固めたが
威力が凄まじく、数十年毎に噴火や地震が発生。
島民が、神威を畏れて祀ったものと思われる。
嘉祥三年(850)従五位下、仁寿二年(852)従五位上の神階を受け、
古来より、伊豆七島総鎮守三島大明神として崇敬された神社で、
式内社・阿米都(和)氣命神社に比定されている古社。
延喜式の古写本では阿米都氣命神社と「和」の字がないが
文徳実録などには阿米都和氣命神社とあるため。
『三宅記』によると
三島大明神の「三宅島におかせ給ふ后おば天地今宮后とぞ申ける」とあり、
これは、祭神・阿米都和氣命が「天地分命」とされ
「天地今宮、今后」と誤記された結果、三島大明神の后神の一人であると思われたようだ。
つまり、当社の主祭神は、三島大明神后神の阿米都和氣命であったが
江戸時代に三島大明神(事代主命)と伊古奈比咩命を勧請し
「富賀、東国、三島大明神」と称されるようになったともいう。
東国とは「当后」の意味で、后神・伊古奈比咩命のことらしい。
異説として、天地今后は伊古奈比咩命のことで、
三島大明神との間に御産みになった天地今宮が阿米都和氣命であるとも。
古くは三宅島中央の雄山の中腹八合目の富賀平にあって
中央火口を祀る神社であったらしく、「富賀」は「戸ケ」
すなわち、雄山の入口という意味であるという。
度々の噴火で、錆ケ浜の荒島神社の地に遷座され、その後現在地に遷された。
現境内から古墳時代の遺物が発掘されており、
当社が遷座される以前、現在地は雄山の遥拝所であったとも。
一説に、出雲の海中に御隠れになった事代主命が
千里の波濤を越えて、三宅島の神着にお着きになり、
雄山にお遷りななり、さらに二富賀山(錆ケ浜)へお遷りになったといい、
当地は、三島大明神(事代主命)の御陵であるという説もあるらしい。
三島神社発祥の地であるという。
つまり、三島大明神と妃神・伊古奈比咩命は当地で創祀され、
後、伊豆半島白浜の地に遷座。
その後、三島大明神は、広瀬神社を経由して、現在の三島大社へ遷ったという。
本殿に菊紋が付いていたが、丹羽基二の『神紋』には御輿紋とある。
残念ながら参拝時に確認できなかった。
境内社は、剣宮(祭神不詳)、見目宮(祭神不詳)、
若宮(物忌奈命)、壬生宮(壬生御館神霊)の四社。
剣宮祭神は事代主命の随神で、事代主命の詔により
三宅島にて大蛇を切り殺し、そのため三宅島には蛇がいないという。
212号線から参道入口 | 境内鳥居と手水舎 |
境内全景 |
境内 |
参道 | 拝殿 |
拝殿 | 神輿殿 |
剣宮、見目宮 | 若宮・壬生宮 |
拝殿後方の階段 | 階段上の本殿 |
阿古港の近く、錆ケ浜(二富賀山)にある荒島神社。
富賀神社の古社地で、火牟須比命を祀る。
荒島神社 |
お堂の横にある小社 | 社殿 |