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笠間神社
かさまじんじゃ
石川県白山市笠間町1
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石川県白山市笠間にある。
北陸本線加賀笠間駅のすぐ北。
木曾義仲ゆかりの木曾街道沿いに、
斜めになった足だけの石鳥居(八字鳥居)があり、
参道を進むと、青銅の鳥居。
境内は、雪解けで、ぬかるんでいた。
創立の年代・由緒は不明。
古くは、笠間八幡、宇佐八幡とも呼ばれ、八幡大神を配祀する。
木曾義仲が手取川の洪水で、渡れず、
当社祭神に祈願したところ、程なく水が引いたという。
参道入口の、足だけの八字鳥居は、
倉光村の善右衛門という力持ちが、さらに大力を祈願し奉納したが、
足だけ残して崩れ落ちてしまった。
その後、当社では石鳥居は神意に叶わぬと伝えられている。
二月の参拝で、雪は解けていたが、風の冷たい午後。
震えながらの参拝だった。
足だけの八字鳥居から北へ参道がのびる。
八字鳥居の由来には、「地にめりこむ」という表現がある。
善右衛門の足も、鳥居の足も、どちらも「めりこんでいる」。
これは、何かを表しているように思えるのだが・・・
当社の例祭は、生の筍を供える「筍祭」と呼ばれるが、
関連あるのかもしれない。
八字鳥居 | 八字鳥居脇の「弓堀の井」 |
八字鳥居の由来
今より五百年程前の永正年間、(一五
〇四〜二一)倉光村に善右衛門なる力持
ちの馬子あり。善右衛門さらに大力の持
主ならむと、霊験あらたかなる笠間神社
に毎夜祈願し、百夜の満願を果たせし時
大宮比咩神現れ出で、百人力を与うる。
善右衛門帰ろうとするに、足は大地にめ
り込みて歩けず。善右衛門困り果て、神
様にお助け願えば、百人力ではなく「敵
一倍」の力を授け給う。その後不思議なる力持ちよと、その名 広く聞こえたり。 敵一倍の力を授かりし御礼をと、石の 鳥居を建立せんとするも、中々に建てえ ず。そこにいつしか現れし少女に手伝わ せ、やっと建てたるも何程もなく崩れ落 ち、二本の柱地中深くめり込み、八字形 となって残れり。この鳥居はそれなり。 その後当神社に石の鳥居は御神意にか なわぬと語り伝えらる。 −参道案内より− |
八字鳥居の横に、「弓堀の井」という丸井戸がある。
木曾義仲が、弓筈で掘ったといわれる井戸。
境内には、元境内社で、第二室戸台風で崩壊した少彦名社址がある。
社頭 |
境内入口の鳥居 | 拝殿 |
狛犬 | 本殿 | 狛犬 |
少彦名社之跡 | 神馬像 |
笠間神社由来碑
当社の勧請年代は不詳であるが延喜式内の古社であります。主神は大宮比咩大神。
相殿には、住吉三前大神、八幡大神、それに末社より合祀した少彦名大神を祀る。笠間郷一村の総社で明治六年笠間村、黒瀬村、松本村、小川村、石立村、北島村、東 米村、西米村、鹿島村、蓮池村、平加村を当社の附属社と取り極められ、更に明治七 年、宮保村、源兵島村、福留村、五影堂村、長島村、小上村、米永村を附属社と定 められる。明治五年加賀国第一区郷社に指定を受け、明治八年宮保八幡神社を当社の摂 社に、更に明治三十年県社に加列。明治三十九年神饌幣帛供進神社に指定される。 其昔寿永二年木曽義仲加賀合戦に平家の軍勢を追撃し此地に来たとき恰も手取川 洪水のため渡る事ができず当社に減水と戦勝を祈願せられるに願空しからずして、俄かに減水して 渡る事を得たので、当社に兜及び喜悦書を奉ったと伝えられる。当時義仲付近住民より寄せ られた煎粉を食して空腹を満し見事勝利を得たと伝えその当時用いた井戸を弓堀の池という。 氏子一同それより後御神得を称え十一月十五日煎粉祭、別名義仲祭と称して神前に煎粉をお供 えし氏子一同も共に食する特殊祭典が執行される。今表参道に義仲弓堀の池が現存し、義仲弓かけ 桜もあったが枯死する。又表参道(馬駆け馬場ともいう)に力善右衛門の奉納したと伝える八の字鳥居もありそ の他数々の口碑伝説を残している。古は社家社僧多数住居し、館屋敷、三郎屋敷、源右衛門屋敷、 坊子屋敷、坊子藪、大門御堂経塚と称する遺名のある如く、社地は広大で氏子数百戸ありて、正三位笠間明神 とも称えられた大社で、その霊験もあらたかで信仰者も近郷に稀なる程であった。境内には丈余の松、杉、欅などの 老樹古木亭々として重なり合い昼なお暗い神厳な神域で人々をして襟を正さしめたのであるが、近代文化の移 り変りと共に古えの面影ないのは淋しい限りであります。境内坪数約千八百坪。例祭六月二十三日別称筍祭 −境内石碑より− |
【 笠間神社(印刷用ページ) 】