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磐椅神社
いわはしじんじゃ
福島県耶麻郡猪苗代町字西峯6199
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式内社 陸奥國瑘磨郡 磐掎神社 |
福島県猪苗代町にある。
会津磐梯山の南西麓。猪苗代駅の北3Kmほどの場所。
115号線から磐梯山を目指すと、
土津神社という大きな神社の正面に到着する。
そこから少し東へ行くと、小川沿いに、狭い未舗装の道がある。
その道を500mほど東へ行くと、境内に到着する。
南から、当社へ来る道もあるが、通っていないので、詳細は不明。
僕が来た川沿いの道は、狭くて離合のできない道。
地元の方に道を聞いたが、その方も「気をつけて」と注意してくれた。
とにかく、欝蒼とした林の中に境内がある。そんな印象。
社前には、大鹿桜が枝をのばし、鳥居杉の巨木が聳えている。
天気が良すぎて、写真としては失敗。
磐梯山の写真も撮り忘れてしまった。
東日本大震災から3ヶ月後、福島を訪問したので、
再度、当社に参拝し、写真を撮り直して来た。
あいにく曇天で、磐梯山は雲の奥。
境内社殿の写真は、新しく撮り直した物に差し替えた。
境内社の後ろの大木が切り倒され、輪切りになっていた。
社伝によると、神功皇后摂政時代、
武内宿禰が勅命を奉じて磐梯山山頂に奉斎したのが創建といい、
また、元明天皇和銅年中の勧請とも。
聖武天皇天平元年、あるいは嵯峨天皇弘仁四年、見祢山の南麓に遷座し、
見祢明神・峯明神ともよばれていた。
承元元年、現社地に遷座。
磐梯山(古名:磐椅山)信仰の象徴としての神社だったようだ。
磐椅と書いて、「いわはし」と読むが、
一説には、天上へ続く、「石の橋」であるという。
江戸時代、会津藩主保科正之が当社へ参詣し、
没後は、当社の末社たらんと望み、
死後、末社・土津神社として祀られた。
鳥居杉は、昔の写真では二本あり、注連縄が張られているのだが、
参拝した時は、一本しか見当たらず、その一本に注連縄。
境内の案内では、西側の杉は、昭和三十三年の台風で倒潰し、
地上15mのみとなったと記されていたが、なくなったのだろうか。
あるいは見落とすほどの規模になってしまったか。
当社の末社として創建された土津神社の方が、大きくて立派だった。
参道 | 社前の境内社 |
社前の大鹿桜 |
境内 |
縁結びの神なので鳥居杉に五円玉が結びつけられていた |
鳥居 | 境内 |
拝殿 | 本殿 |
境内社 | 境内社後ろの大木 |
御由緒
会津はもとより県内外の人々から「いわきさま」と親しまれている社は歴史が古く、その格式は東北でも有数で、延喜式内勅祀社・神階正一位・旧県社・陸奥国神従四位・会津總産土神と名高い。そのおこりは、はるか昔、応神天皇の御代(弥生時代)神功皇后摂政五十年の(250)時、武内大臣の巡視のみぎり勅命を奉じ国土開発の神なる[大山祇命・埴山姫命]を磐椅山[いわはしやま](磐梯山)の頂上に鎮座された。 又、聖武天皇の御代(奈良時代)天平元年(729)8月25日見袮山南麓の現在地に遷座し、相殿として誉田和気命(応神天皇) 息長足姫命(神功皇后)を配祀す。 これらの神々は縁結び・豊作祈願・方除開運・等全ての開発開運の神様として名高く古来有名であります。 十世紀の始めに「延喜式」の神名帳に、磐椅神社は耶麻郡一座にとしてあり、昔は右に神殿門宏麗にして廻廊鐘桜及数座の末社相連なり往時は神輿の渡御、流鏑馬等の神事を行はせられたものであった、立派な神輿は社殿に保存されている。 村上天皇の御代(平安時代)天暦元年(947)勅使御差遺あり、由来お尋ねありし時桜樹を奉献せられ社殿修復し、この時の桜樹が大鹿桜である。 花弁のなかから葉が出るという珍しい桜の大木で、見頃は五月五日〜十日頃である、会津五桜の一つである。 順徳天皇の御代(鎌倉時代)猪苗代城主三浦経連が承元元年(1207)夏現在の所に旧社殿のまま御遷座され杉を植え、これを鳥居杉と称す。 天正年中、伊達政宗摺上原の合戦後一時衰微するに至りるを会津藩主保科正之公が寛文年中(江戸時代1660〜1672)社殿を御造営になる、万治二年正之公当社に参詣して没後末社たらんことを告げて神事を行う、因って当社の末社として土津大明神(土津神社)これ正之の靈なり。 会津磐梯山は明治二十一年の大爆発で変形したが、以前の山容はととのい、山頂は高く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)すなわち「いわはし」の山であった、このようにして、古い歴史と社格をもった磐椅神社は会津磐梯山は父なる山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で磐椅大明神・峰明神として古くより東北の文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。 −『平成祭データ』− |