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鹿島神社
かしまじんじゃ
福島県伊達郡国見町大字藤田字北38
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式内社 陸奥國信夫郡 鹿嶋神社 |
福島県国見町にある。
東北本線・藤田駅から直線で東へ500mほどの藤田北に鎮座。
国見町役場から西へ300mほどの位置。
小学校の西数十mに、境内があり、道路脇の階段を上る。
階段下には駐車場があり、階段を上ると鳥居。
鳥居の脇に社号標が立っており、参道を進むと社殿が鎮座。
社殿前には「醫薬神社」と書かれた幟が立っている。
相殿に祀られている医薬神社が有名なのだろう。
拝殿には二つの賽銭箱と二つの扁額、二つの注連縄と鈴。
右手の扁額には「鹿嶋神社」とあり、左手には「醫藥神社」。
社号標には「鹿島神社」とあるが、鹿島でも鹿嶋でも良いのだろう。
拝殿の後方には神明造の本殿がある。
参拝は天気の良い夏の休日。
参道や境内には、鉢植えの花が並び、
掃き清められた境内は、落ち着いた雰囲気だった。
社伝によると、奈良朝の頃、
按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人が蝦夷平定のため東征のおり、
常陸国より守護神として鹿島明神を勧請したのが創祀。
元は、現在地の東300mほどの古鹿島に鎮座していたが
永録年間に社殿が焼失。次の慶長年間に社殿が再建され
享保の頃に現在地に遷座したという。
式内社・鹿嶋神社の論社の一つ。
相殿の医薬神社は、天長の頃、空海上人巡礼のおり
当地の眼病被害を救うため、霊石に薬師如来をを刻んで現在地に祀ったもの。
この如来に祈願すると、夜が明けるが如く平癒するため
「明けの薬師」と呼ばれていた。
その後、兵火にかかって焼失し荒廃してしまい
薬師像のみが雨露にさらされていたため、「裸薬師」とも呼ばれていた。
明治になって医薬神社と改称し、鹿島神社の相殿に祀られた。
二つの賽銭箱は、拝殿内の提灯には三つ巴の紋が付けられていた。
瓦葺拝殿の屋根にも三つ巴紋が付いていたが、他の紋と向きが違う。
巴紋の向きも、左右どちらでも良いのかもしれない。
境内の左手に竹駒稲荷神社、社殿み右手に八幡神社が祀られている。
境内隅には石祠や石碑が幾つか祀られている。
社頭 | 鳥居 |
境内 |
拝殿 | 医薬神社と鹿島神社 |
本殿 | 本殿 |
竹駒稲荷神社 | 八幡神社 |
−境内由緒書− 鹿島神社縁起
鹿島神社縁起によると、「奈良朝(8世紀)のころ按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人、蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請して当地に安置した」とある。このとき祀た鹿島明神の位置は、現在も古鹿島として地名が残っている。永録年間に社殿が焼失したが、慶長年間に再建された。下って享保10年9月7日(1725)、現在の地に遷座された。延喜式内社ともいわれているが定かではない。相殿に医薬神社が祀られている。現在の社殿は明治14年12月に改築され、その後、本殿、拝殿は明治維新百年を記念し、昭和45年10月に改築された。社殿には、有晒川織仁親王御染筆の奉額「鹿島神社」・「医薬神社」(原本は2巻の掛物として保存)が掲げられている。このほか、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二将神木像(江戸初期の作)が安置されている。境内には近世における南画の大家として知られた熊坂適山(寛政8年保原に生まれる)の画碑が建っている。また、相殿の医薬神社は、明け薬師縁起によると、「天長(9世紀初期頃)空海上人巡礼のおり、この地の眼病流行によって苦しむ里人を救わんと、霊石に薬師如来を刻し現地に祀る。里人一宇を建て尊像を安置し奉った。のち兵火のため焼失し、尊像のみが雨露にさらされている期間が長かった。よって裸薬師と言い伝えられた。」とある。明治元年、医薬神社と改称し、鹿島神社内に相殿として合祀された。
−『平成祭データ』− |