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黄金山神社
こがねやまじんじゃ
宮城県遠田郡涌谷町黄金宮前23
すめろきの 御代栄えむと東なる 陸奥山に黄金花咲く
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式内社 陸奥國小田郡 黄金山神社 |
宮城県涌谷町にある。
石巻線・涌谷駅の北東3Kmほどの黄金宮前に鎮座。
346号線に面して南西向きに黄金の鳥居。
境内は、黄金山産金遺跡にあり、「わくや万葉の里」の奥。
鳥居の側には、砂金採り体験場のある天平ろまん館。
わくや万葉の里は、綺麗な芝生に覆われており、
アチコチに万葉の歌碑があるようだが、
歌碑のことは分からないので、真っ直ぐに進む。
途中、「石割り菩薩」というオブジェがあるが
これが面白い。
大きな石を切断し、鏡のように磨いた切断面に
金の菩薩が描かれており、切断面を少し離して立てている。
参道を進むと、境内入口の鳥居。
数段の階段を上り、鳥居をくぐると木々の茂った参道。
ここまでは、洋風な明るい印象だが、
ここからは急に、深遠な古社の趣きがある。
当地は、日本最初の産金地。
聖武天皇、天平二十一年(749)
陸奥国守百済王敬福によって当地の砂金が献上され、
東大寺の大仏が完成したという。
産金は、当時の日本では大きな出来事であったようだ。
よって、当社の創祀もこの産金が始まった頃(天平)と思われる。
社伝では、宝亀元年(770)按察使参議紀能により勧請され、
延暦十八年(799)坂上田村麿によって修理が加えられたという。
式内社・黄金山神社に比定されている古社。
天正十八年(1590)三月、野火によって社殿焼失。
文禄二年(1593)に再建されたが、
以後は荒廃し、寛政・享和の頃には祭礼も行なわれなくなり、
礎石に「黄金山」の文字だけが残っていた。
文化十年(1813)四月、
伊勢白子の沖安海が社跡を調査し金三十両を献納した。
その後、村内に悪疫が流行し、
これは神事怠慢のせいであると村民協議ののち、
天保六年(1835)安海の献金を基金として
社殿を再興した。
境内奥に社殿があり、その斜め前に案内盤。
案内盤にボタンがあり、
ボタンを押すと音声による解説が始まるらしい。
境内には誰も居なかったので、押してみた。
すると、スピーカーから大きな声。
黄金山産金遺跡の説明が流れ始めた。
音声説明が始まった時には、僕一人の境内だったが、
しばらくして家族連れらしき参拝客が境内に入ってきた。
説明は、まだまだ終わらず、静かな境内に木霊している。
僕が悪いわけではないが、
他の人の参拝を邪魔しているようで居心地が悪い。
説明は続いていたが、そのまま放置して境内を去った。
わくや万葉の里入口に金の鳥居 |
石割り菩薩 | わくや万葉の里 |
石割り菩薩 |
参道鳥居 | 参道 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
国史跡 黄金山産金遺跡と黄金山神社
涌谷は、日本で初めて金(砂金)が採れた所である。それは奈良時代、聖武天皇に
よって東大寺の大仏が建立されていた時のことである。大仏は銅で鋳造した後鍍金する金銅仏であった。だがこの鍍金用の金が不足し、 大仏の完成が危ぶまれていた。そこへ天平21(749)年、涌谷から日本で初めて産出し た砂金900両(約13Kg)が、陸奥国守百済王敬福によって献上された。この砂金によっ て大仏は無事完成したのである。 このできごとは世の中を大きくわかせ、聖武天皇は年号を天平から天平感宝へと 変え、大伴家持は初産金を祝して歌を詠み、万葉集に残した。 黄金山産金遺跡は、発掘調査によって奈良時代の建物跡が発見された。この建物 は、産金を記念して建立された六角円堂と推定されており、天平産金の重要な関連 遺跡として、昭和42年国史跡の指定を受けた。 一方黄金山神社の歴史は古く、初産金のあった天平21(749)年、砂金が採れた山に 神社があったことを示す記録がある。この神社が涌谷の産金と深い関わりのある黄 金山神社で、後に国の官社となった。その後砂金の枯渇とともに朽ちたが、江戸時 代に沖安海によって再興され、現在も人々の信仰を集めている。 かつて砂金を採った地域は、箟岳丘陵一帯と考えられている。今でもこの丘陵の あちこちの沢から採れるわずかな砂金が、古代の栄華を現代に伝えている。 −わくや万葉の里 説明板− |