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波爾布神社
はにふじんじゃ
滋賀県高島市新旭町饗庭3363
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式内社 近江國高嶋郡 波尓布神社 |
滋賀県新旭町(現高島市)にある。
新旭町の北のはずれ、今津町との境に近く、
今津駅の南西2Kmほどの饗庭に鎮座。
新旭駅からは北へ6Kmほどなので、今津駅の方が近い。
鎮座地は、木津とも呼ばれるが、
木津は、古津の変化したもの。
今津に対する名称であるらしい。
小川に掛かる石橋を渡ると境内だが、
小川の土手に、「猪垣」(ししがき)跡が残っている。
昔、木津の村が猪被害に苦しんだ時、
2Km以上もの垣を巡らして猪を防いだという。
個人的には、それほどの大工事をしなくても他に方法はあるような気がするが。
とにかく石橋を渡り、参道を進むと広い境内。
正面に拝殿があり、後方には大きな本殿がある。
本殿の左右に、境内社の小祠が2つ。
右は、邇岐志神社(大山祇命 邇邇岐命)。
左は、熊野神社(熊野久須比命)。
創祀年代は、不詳。
社伝によると奈良時代であったという。
当初、彌都波乃賣命一柱を祀っていたが、
天平十三年、阿波国より波爾山比賣命を勧請し、
二柱の神を祀るお宮となった。
聖武天皇の御代、橘諸兄の崇敬を受け、
神輿や神田などの寄進を受けたという。
式内社・波尓布神社であり、高島郡北部の大社であった。
当社の例祭は、昔、二月の初丑の日に行われ、
木津の丑祭と呼ばれていた。古歌に、
「高島の丑の祭にこと問へば如月半ば雪は降りつつ
妙なりや衣を水にぬぎかへて浪に神輿をうけて渡せる
雪風の寒さもしらで神心祓と共に渡しこそすれ」
境内社である熊野神社は、式内社・熊野神社の論社である。
元は、熊野山の熊瀬に鎮座していたという。
現在、熊野山は自衛隊演習地となっており立入りはできない。
拝殿や本殿に、三つ巴紋が付いていたので、
当社の神紋だろうと油断していたが、
『神社名鑑』には、「ひさご紋」だと記されており、『滋賀県神社誌』には「千成瓢箪」。
慌てて、撮影してきた写真を見直してみたが、
どこにも、ひさごや瓢箪は写っていないので未確認。残念。
境内入口の猪垣跡 | 鳥居 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
境内左に式内社・熊野神社 | 参道の森為村落馬石 | 境内右に邇岐志神社 |
波爾布神社
祭神は埴山姫命、罔象女神で式内
社である。かっては対岸の坂田郡都
久麻神社より筑摩御饌が供せられ、
木津の丑祭と称し、庄内の新婚者に
より内湖内の御輿渡御が行なわれた
。本殿は江戸時代前期の町内最古の
建物である。境内には古墳があり、
境内からは水の祭礼に使われた土馬
が出土し、湖東流紋岩を産出するこ
とでも有名である。−社前案内板− −社前案内板− 波爾布神社
由緒創立は奈良時代である。当社の縁起書によると、初め水神彌都波乃売命を勧請したとある。 延喜式記載の式内社であり、旧饗庭村全域と旧新儀村の安養寺・新町・井ノ口が氏子である。 かつては土生(はぶ)大明神(俗称”土生さん”)と称していた。これは、神社の所在地が土生谷であるのでこの名がついたと思われる。いずれにしても、この地の山や水を神として祀ったものである。 聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平十三年三月神輿一基、神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。寛治二年(1088)五月には、奥羽征討使鎮守将軍源義家が当社に祈願し、弓一張、箭二筋を奉納した。しかし、その後、天下の擾乱によって神領を掠奪され、二百余年間修理することもなく社殿は荒廃した。 明応五年(1496年)四月、後土御門天皇の聖旨をもって社殿は再建され神領も復古した。元亀天正の兵乱により神領は再び没収されたが、元和十年(1624年)再建された。正保三年(1646年)領主酒井忠勝が修理を加えた。この社殿は江戸時代前期のものであり、新旭町に現存する建物としては最古のものである。明治九年郷社に列せられた。 −『平成祭データ』− |